第4章〜国風文化〜

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かなの発達

10世紀以後国風文化が発達した。
かなの発達によって万葉仮名の草書体からできた平仮名や、 漢字の一部からできた片仮名も利用されだした。
しかし、まだかなは女性が使うものとされ、公式の場では漢字を使用していた。

国風文化

@詩歌
a,和歌 最初の勅撰和歌集である古今和歌集が紀貫之によって編集された。
b,物語 竹取物語伊勢物語紫式部源氏物語が有名である。
c,日記 紀貫之の土佐日記、 藤原道綱母の蜻蛉日記、菅原孝標女の更級日記が有名。
 紀貫之は男であるが、女性になりすまし、かなを使って初めて日記を書いた。
d,随筆 清少納言枕草子が有名である。

A浄土の信仰
a,本地垂迹説〜神は仏が仮に形をかえてこの世に現れたものとする思想
b,御霊令の発達
c,阿弥陀仏を信仰する浄土教が発達した背景には、末法第一年(1052年)と呼ばれる末法思想 の流行があった。
布教には市聖と呼ばれ六波羅蜜寺を創建した空也や往生要集を著した源信 などが有名である。
彫刻では阿弥陀如来像が制作され、寄木造が仏師定朝により用いられ 絵画では往生しようとする人を迎えに仏が来臨する図の来迎図の制作が活発となり、 有名なのは高野山聖衆来迎図である。
 結果として阿弥陀堂の建立が増大し、慶滋保胤などにより往生伝が編集された。
 
B国風美術の発達
建築では寝殿造が用いられ、襖や屏風には唐絵にかわって巨勢金岡が祖とされる大和絵が 描かれた。
工芸では蒔絵が発達し、螺鈿の技法などが屋内の調度品に用いられた。
書道では、小野道風藤原行成『離洛帖』を著した藤原佐理の3人が活躍し三筆と呼ばれた。

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