第5章〜平氏の進出と院政〜

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@武士団の成長
 朱雀天皇の時代あたりから、武士団の成長が見られるようになった。
 935年から939年に一族の内紛がおこり、平将門が伯父・国香を殺害、  そして939年には常陸国府を襲撃し、平将門は下総の猿島を拠点として反乱を起こした。
 その時、平将門は自らを親皇と称した。(つまりこれは、政府からの独立を意味する。)
 そして、関東の大半を支配し、勢いにのる平将門であったが、940年に平貞盛藤原秀郷らによって鎮圧された。
 この一連の出来事を平将門の乱という。

 また、元国司である藤原純友の反乱が起こった。
 純友は日振島を拠点とし、伊予・讃岐国府・大宰府などを襲撃した。
 これを藤原純友の乱といい、これは清和源氏の祖である源経基小野好古らによって鎮圧された。
 この平将門の乱と藤原純友の乱をあわせて、承平・天慶の乱という。

 また、1019年に沿海州を本拠とする女真族が対馬や北九州を襲撃してきた。
 これを刀伊の入寇という。これは、当時の大宰権師の藤原隆家らが九州の武士を率いて撃退した。

 これらの反乱が起こるにつれ、武士の実力が認識され始めた。
 実力を認識された武士は、貴族に侍として利用されたり、宮中の警備である滝口の武士宇多天皇によって設置されたりした。

A源氏の進出
 まず、清和源氏の祖と言われているのは、941年の藤原純友の乱を鎮圧した藤原経基である。
 また、969年の安和の変で摂関家に接近した源満中、1028年から1031年の平忠常の乱を鎮圧し、 東国進出のきっかけを作った源頼信、1051年から1062年の陸奥の豪族安倍氏の反乱である前九年の役を 平定した源頼義、1083年から1087年の清原氏の相続争いである後三年の役を平定し、東国武士団との主従関係を強化していった 源義家などがいる。
これらの人物によって清和源氏は発展していったのである。

Aのまとめ
a,源経基:941年、藤原純友の乱を鎮圧
  ↓
b,源満仲:969年の安和の変で摂関家に接近
  ↓
 源頼信:平忠常の乱<1028〜1031>を鎮圧し、源氏の東国進出をつくる。
  ↓
c,源頼義:子の義家とともに前九年の役を平定
  ↓
d,源義家:後三年の役を平定した.
前九年の役:1051〜1062年、陸奥の豪族安倍氏の反乱。出羽の豪族清原氏の援助を受けて鎮圧。
後三年の役:1083〜1087年、藤原清衡を助けて平定。東国武士団との主従関係を強化した。



院政と平氏の台頭
 時の摂政・関白を外戚としない後三条天皇は、1069年に延久の荘園整理令を発布した。
 この法令は従来の整理令とは異なり、担当を国司から太政官内の記録所へ移したものである。
 また、後三条天皇は、立券荘号の確認のために記録荘園券契所記録所 を設置した。
 これは摂関家の荘園に大きな打撃を与え、荘園領主(寄進先)が天皇に変わっていった。
 また、国家指定の枡を宣旨枡に指定した。

 1086年、白河天皇は幼少の堀河天皇へ譲位して、上皇として、実権を握った。
 御所(院)に院庁を開き、院政を開始した。
 院庁は、院司と呼ばれる職員から成り、武力として白河上皇が北面の武士を設置した。
 命令は、院庁下文院宣が権利を持っていた。
 白河・鳥羽・後白河の三代約100年あまりにわたって最盛期であった院政であったが、徐々に地方支配が乱れていき、 下級の僧侶や徴収農民たちが武装化して僧兵となり、各地で僧兵による反乱が起きた。
 これにより政治は腐敗し、社会不安が増大していった。
 そして、これらを武士が鎮圧し、武士が中央政界へと進出していったのである。



平氏政権
1167年に平清盛が太政大臣に就任し、一族で高位高官を独占した。
平清盛は娘である平徳子高倉天皇の中宮として、その間にできた 安徳天皇の即位によって外戚となった。
また、京都の六波羅を拠点としていて、経済基盤は30余国の知行国、500余国の荘園、そして日宋貿易であった。
しかし、ここで注意しないといけないのは、この貿易は私的な貿易であり、日本と中国は当時正式な国交はなかったということだ。
これはよく正誤問題で問われるポイントである。
また、清盛は畿内・西国武士を家人として、荘園・公領の地頭に任命した。


伊勢平氏の台頭
高望王の子孫である伊勢平氏が力を手にしてきた。
主な伊勢平氏としてはまず、白河上皇に重用され、院の北面の武士に任命された平正盛である。
平正盛は源義親の乱を鎮圧した。
次に、鳥羽上皇に重用され、院庁別当となった平忠盛、次に安芸種に任命された平清盛などがいる。

・保元の乱
鳥羽法皇の死を契機に天皇家と摂関家の内紛である保元の乱が起こった<1156>。
天皇側は後白河天皇、藤原忠通、平清盛源義朝であり、摂関家側は崇徳上皇、藤原頼長などがいる。

・平治の乱
保元の乱後の院の近臣の対立を平治の乱という。
藤原通憲平清盛 VS 藤原信頼源義朝
平清盛方が勝利した!!・・・ちなみに源頼朝は伊豆へ流されたのだ!
つまり、源氏は敗退→平氏政権が成立した。



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