庶民の遊び
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石投(いしなご)
石を数個下に置き、一つを高く放り上げて、落ちてこないうちに置いた石を拾って落下してきた石を受ける遊びで、いわゆる「お手玉」です。
『法隆寺献納宝物』に「法隆寺の賓物に、いしなとりの玉あり」と書かれています。
平安時代、西行法師の歌ったものとして、
「いしなごの 玉の落ちくるほどなさに 過くる月日は かはりやはする」
と『聞書集』に記載されていますから、ポピュラーな遊びであったのでしょう。
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独楽(こま)
今もお正月の遊びとして、あるいは子どもの楽しみとして残っている独楽(こま)回しは、中国で生まれ、朝鮮半島(高麗)を経て伝わったとされ、「高麗」から「こま」と呼ばれるようになったと言われています。また古くは「独楽(こま)」のことを「こまつぶり」と呼んでいたらしく、「こま」とはその略のようです。
室町時代の『慕帰絵詞』には、門前で独楽回しに熱中している子供たちが描かれています。
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竹馬
今見る竹馬とは違い、笹竹の枝にまたがって騎馬ごっこをするものです。子どもの代表的遊びとしてさまざまな絵巻物にその姿を見かけます。
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輪鼓(りゅうご)
鼓形の筒を、紐で回すように操る遊び。形は三角形を上下に二つつないだもので、木で出来ている、これを柄のついた糸を両手であやつり、転ばして廻す。あるいは投げ上げて、糸で受け取ってまた廻すというもの。ヨーヨー式の独楽遊びとも言えるものです。
『梁塵秘抄』に若い公達の好みの柄として「輪鼓、輪違、笹結び」と歌われていますから、平安時代からお洒落なデザインとして扱われていたのでしょう。
鎌倉時代の一遍上人が仏門に帰依するきっかけは、子供の遊ぶ輪鼓を見て「輪廻というものも、こういうことか」と悟ったからと言う説もあります。
女子の長袴の緒(腰紐)の先に、ひらひらしないためのおもりとして太い糸を輪鼓形に縫いつけます。「龍鼓」と書いて「りゅうご」と呼ばせることもありますが。本来は輪鼓です。
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雛(ひいな)遊び
今の雛祭りの人形飾りに通じる人形を使った遊びで、着替えさせたりする「ままごと遊び」であったようです。
『枕草子』には「すぎにしかた恋しきもの、枯れたる葵、ひいな遊びの調度」と記され、幼き日々の楽しい思い出となる遊びであることは、今日と何ら変わるところはありません。見て楽しむ人形でなく、まさに遊べるオモチャとしての人形、そして穢れを払う「人形(ひとがた)」でもありました。
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毬打(ぎっちょう)
打毬が形を変えたもので、ひろく庶民にも広がりました。そうなると当然のように賭博にも利用されたようです。長い柄のついた槌で玉を打つ平安時代の遊びの一つである毬杖は、『鳥獣人物戯画』にも登場し庶民の正月の楽しみの一つだったようです。ゲームに興じる姿、用具などは、まさにゲートボールのように見えます。
これは毬(木玉)を木の槌で打ち合う遊びですが、そのルールはよく判りません。打毬の延長と考えますとゴールゲートめがけて打ち合うゲームとも考えられます。鳥獣人物戯画を見る限りでは、各自が槌を持ち、毬も複数あるようです。
この遊びが正月に行われたのは、正月行事の多くがそうであるように、一年の吉兆を占うためだったようです。そして災いをもたらす鬼神を毬に見立てて槌で打ったとも言われています。しかしそれは後世の見方かも知れません。当事者は純粋に遊びとして楽しみ、また多少はバクチの楽しみもあったでしょう。室町時代の『西行物語絵巻』(俵屋宗達模写)には庶民の子供たちの遊ぶ様子が描かれています。
のちにこの遊びは儀式となりました。『年中行事絵巻』に儀式の様子が、描かれています。小正月の15日、清涼殿の東庭において青竹を結び束ねて立て、そこに毬打の槌3本を結びつけ、さらに扇子、短冊、古書などを添えて、謡い囃しつつ焼く「三毬打(さぎちょう)」がそれです。正月飾りを焼く「どんと焼き」を「左義長」とも言いますが、これは三毬打が字を変えたものと言われます。
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銭打ち
地面に銭を並べて、自分の銭を相手が指す銭に当てる遊びです。
現在の「めんこ遊び」の元となったといわれています。賄事にも使われていました。
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