榎本武揚

榎本武揚は天保7年(1836年)8月25日、江戸下谷御徒町の直参旗本の家の次男として生まれました。通称は釜次郎。 父、円兵衛は旧姓箱田良助と言い、備後(今の広島県)の国のい箱田村の出身だった。

彼は頭が良かったので、やがて江戸に出て天文学を学んだ。当時天文学は、正確な暦を作る上で重要で、正確な暦は農作物に重要な影響を与えるものでした。

彼は日本測量で有名な伊能忠敬に師事し、彼の死後、その志を受け継いで日本地図完成に尽力した。その後幕臣の榎本家の株を買い、榎本円兵衛武規となった。
釜次郎は幼少の頃から、いろんな学問を習っていた。

彼は昌平坂学問所で儒学を学び、江川太郎左衛門からオランダ語、アメリカ帰りの中浜万次郎から英語を学ぶという英才教育を受けて育った。

昌平坂学問所の卒業試験に落ちた釜次郎は、当時の箱館奉行堀織部正の小姓として、蝦夷の箱館(後の函館)に渡った。当時の箱館は、ペリーの黒船来航に始まる日米通商条約で外国に開港されている港でした。釜次郎はここで堀織部正とともにまだ未開だった蝦夷の大地を探検したりして、蝦夷の地の地理や星、気候などを学んだのだろう。

幕府が新しい長崎海軍伝習所を開くと、箱館から戻った釜次郎もはいり、造船・測量・航法・機関などの新しい学問を学んだ。はじめに釜次郎は、第一期生の矢田堀景蔵の従者として講義を聴いていた。

当時、彼以外にも一期生の勝海舟などの従者という形で講義を聴いた者も数多くいた。そして彼自身はと言うと、伝習生となったのは二期だった。しかし海軍伝習所も長崎にあり、幕府のある江戸と距離があり、様子がわからない不安から1859年に幕府の一方的な通告で閉鎖された。長崎で生徒だった釜次郎たちも、江戸で今度は教授として教えることになった。