福澤諭吉

 

福澤諭吉は天保五年十二月十二日(1835年1月10日)大阪堂島の中津藩蔵屋敷で五人兄弟の末っ子として生まれた。父は生後一年半で病死してしまい、その時に一家は郷里中津に帰った。

輸吉は14,5歳にして漢字塾に通い始めた。青年になった時、学問の道を選び長崎へ行き、 大阪の蘭学(オランダの学問)の大家緒方供庵の塾にも入って、蘭学の修行に励んだ。当時の日本は鎖国ではあったがオランダとの通商関係があったため、それがきっかけになったのである。そこで自然科学を研究し漢字や科学に対しての考えを深めていった。

23歳になった時は、福澤塾を開き、慶応義塾の始まりとなったのである。慶応義塾と命名するまで、10年間かかった。その間に今後の日本のあるべき姿、それに対する自己使命など、その学問、思想の深まりが固まって行き、やっと慶応義塾が誕生したのである。 蘭学から英語の時代になると考えた諭吉は語学力と知識を蓄え、万延元年(1860)渡米使節の随員として「咸臨丸」に乗り込みアメリカの土を踏んだ。

以後明治維新までに2度外遊し、西洋世界の思想や文化をその柔軟な思考にしみ込ませた。 慶応義塾の「慶応」というつけられ方は非常にめずらしく、福澤個人や藩から独立した事を意味していたと考えられるだろう。「義塾」というのはパブリックの学校と言う意味である。塾の誕生から10年立ったとき、ひとつの共同結社として再山発した。教師も生徒も結社の一員という考えを生み出し、義塾特有の「社中」という言葉が生まれた。

実学と独立の精神も高く評価された。何事があっても、精神は日本人としての自覚と独立心を忘れてはいなかった。また、塾の正しい規律を作ればそれに反発しようとする物も少々いたが、それでも輸吉はあきらめなかった。規律を正しながらも、時には塾生の仲間に入って、共に酒をかわしつつ、共に語るという親密さを忘れてはいなかった。

そうやって慶応義塾には自然と良い塾風が出来上がったのである。 明治5年からは、「西洋事情」、「文明論の概略」、「学問ノススメ」などを続々と出版し、民主主義思想の普及に大きな影響を与えた。