勝海舟(1823〜1899)

勝海舟は江戸本所に生まれた。 島田虎之助から剣を学び、永井青崖から蘭学を学んだ。  勝海舟の家は、ごはんにもこまるほどびんぼうだった。

28才ごろには蘭学の塾をひらいた。オランダ語の辞書を買えなかった海舟は、ある医者から本をかり、58かんを2組もつしとった。1組は自分で使い、もう一組は30両で売って生活費にあてていた。  

その後、海舟は薩摩(鹿児島県)藩主、島津なりあきら、のもとで、翻訳の代筆をした。なりあきらは老中の阿部政弘に海舟をしょうかいした。(1853年ペリー来航で海舟は「海防意見書」江戸湾防備策でここで海軍建設の急務をいっている。)すぐれた人材を大切にする老中は、海舟をほんやくがかりにした。

(1855年)  長崎に海軍伝習所ができると海舟も入り、オランダ人の先生から航海術などを学んだ。海舟33才の時で、外国のすばらしさを知り、開国論者になった。  アメリカと通商条約がむすばれると、幕府はアメリカに使節を送る事に決めた。(阿部正弘は幕末の政治家。鎖国制度をやぶりアメリカなどと和親条約をむすんだ。)

勝海舟は、咸臨丸であらしにあい、あくせんくとう、37日かかってサンフランシスコに着いた。日本人のそうじゅうで太平洋を横断したのは、初めてだった。帰国後海舟は、1862年40才で幕府の海軍奉行にばってきされた。  

1867年15代将軍の徳川慶喜が、政治を京都の朝廷にかえした。ところが、新政府のひとたちは、徳川をたおすため朝廷の軍(官軍)は、西郷隆盛を参謀に薩摩、長州などの兵をひきいて江戸へむかった。 そこで、海舟が西郷隆盛と話し合って江戸城は戦争しないであけわたされた。(山内とよしげ1827〜1872幕末の土佐藩主。藩の国防強化に努めた。