小栗忠順

1827年(文政10年)、江戸駿河台邸に誕生。幼名「剛太郎」。徳川家に仕え、旗本だった。8歳の頃から文武両道に興味を持ち、抜き出た才能を発揮していた。

17歳で登城し、将軍直属の親衛隊となった。29歳の時、父が病死した。そしてアメリカへ修好通商条約交換のため、咸臨丸で他の遣米使とアメリカへ行った帰路、彼は日本人で初めての世界一周を果たす。

日本とは違った、進んだ海外文化を目の当たりにした彼の衝撃と感動は凄かっただろう。帰国後、1860年(万延元年)から1868年(慶応四年)までの八年の間に外国奉行、小姓組出頭、勘定奉行勝手方、歩兵奉行、陸軍奉行、勘定奉行勝手方、軍艦奉行、勘定奉行勝手方、海軍奉行を歴任した。

慶応元年(1865)にはフランスから二百四十万ドルを借款し、フランス公使ロッシュと組んで横須賀海軍工廠(製鉄所・造船所・修船所)の建設を開始する。翌年にはさらに六百万の借款契約を結ぶが、その後幕府は瓦解してしまう。

鳥羽伏見の敗戦の後、小栗は徹底抗戦を主張するが受け入れられず、江戸城は無血開城した。1868年(慶応四年)二月二十八日、領地の上野(群馬県)群馬郡権田村へと隠退。大砲二門と鉄砲を持っており、戊辰戦争での混乱による暴徒が村へ押し寄せてきたのを追い返したことが、東山道総督府に抵抗の意志ありと誤解されたため同年四月六日に烏川ほとりにて斬首。享年四十二歳だった。