佐々倉桐太郎   

佐々倉桐太郎は天保元年(1829)江戸下谷御徒町の結城家に生まれた。そして桐太郎は浦賀奉行与力である佐々倉家の養子となる。

嘉永6年のペリー来航では、その応接掛として奔走。安政2年第1期生として、浦賀から、中島三郎助と共に長崎の海軍伝習生となり、オランダ人から土官心得について学んだ。それから約16ヶ月間の習得後観光丸を操って江戸に帰り、築地の軍艦操練所が創設され、その教授となった。

万延元年(1860)咸臨丸渡米には、運用方兼鉄砲方として乗り込み、大いに活躍する。桐太郎の名を高めたのはサンフランシスコ入港の際における礼砲事件であった。   米国軍艦の礼砲に応えて、当直将校の佐々倉が答砲の許可を求めると、勝は、「失敗すると恥になるから、撃つな」と言った。桐太郎は「失敗するはずはない」と強気で答えた。 「それでは撃て。失敗しなかったら、俺の首をやる」と売り言葉に買い言葉で、気の強い佐々倉は、副直の赤松を号令官に、見事に答砲を撃ち納めした。帰国後、幕府から銀50枚、時服2枚、そしてさらに銀30枚が贈られた。  

それからは軍艦操練所教授頭取をはじめ、御軍艦頭取や改称された海軍所頭取などの要職につく。慶応3年には四百俵15人扶持をもって江戸出仕を命じられ、浜御殿内で幕府海軍の指導にあたっていたが、幕府の命脈も尽き、自らの病のため、一家をあげて三崎小網代の高橋仁右衛門方に移っている。   

維新後は静岡藩権少参事となったが、廃藩置県のあった明治4年(1871)、海軍兵学助として、海軍兵学寮出仕を命じられた。やがて兵学寮は海軍省の所管となり、兵学権頭に任じられた。   

このころ勝海舟は初代の海軍卿となったが、明治6年11月、兵学寮に明治天皇が行幸され、当時兵学寮の責任者であった佐々倉は、部下を連れて陛下に拝謁した。このとき勝海軍卿が佐々倉の名前を紹介し、勅語を賜ったという。旧幕臣として共に日本海軍の創始に当たった 明治8年、名実と共に兵学寮の責任者となったが、病状は日々に悪化し、その年の12月17日、咸臨丸以来の友人、海軍大丞赤松則良が見舞いに来た際、挨拶を交わし、そのまま永眠したという。

享年46歳。墓は向丘浄心寺にある。  海軍兵学寮は翌明治9年に海軍兵学校と改称され、明治21年に広島県江田島へ移転した。