※出典※

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なくなれ!厚木基地のページ

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/~t.a.arai/takashi/atugikiti

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この墜落事故で重傷を負った椎葉悦子さんと夫の寅生さんは、米兵パイロットらを業務上過失致傷罪で告訴しました。

はじめの裁判は、日米地位協定で第一次裁判権が日本側にないことと、起訴できるだけの証拠がないなどの理由で不起訴となりました。

しかしその後、1980年、椎葉寅生さん一家は、当時未成年の民生君、かおりちゃんをふくめ、4人で国と米兵を相手とする民事訴訟に訴えました。そして7年後、横浜地裁で「米軍人にも日本の民事裁判権が及ぶ」との判決がだされました。
裁判

事件直後、付近で仕事をしていた労働者の必死の救出活動により、幼児2人を含む、9人の重軽傷者が病院に運ばれました。

青葉台病院に収容された林裕一郎君(当時3歳)と、弟の康弘君(当時1歳)は、全身大やけどで包帯にぐるぐる巻きにされながら、必死で飲み物を求めていた、といいます。その日の夜遅く、2人は「痛い いたいよう‥‥」「水、みずをちょぅだい‥」の叫び声の合い間に、黒いどろどろした物を吐くようになり、急速に弱々しくなっていきました。

2人は翌日の早朝、父親の励ましもむなしく、なくなってしまいました。

裕一郎君と康弘君の母親の和枝さん(当時26歳)も、全身8割にも及ぶやけどで昭和大学藤が丘病院に運ばれました。一方月以上も絶対安静の危篤状態が続きました。死の危険がなくなってからも、皮膚移植手術などの手術が繰り返され、その間、ずっと、自分の子どもは他の病院で治療を受けている、といわれ、信じ続けていました。

子どもの死が知らされたのは、事件から14ヵ月後。遺骨を抱きしめながら、ずっとなき続けていたそうです。

その後、呼吸器障害などを乗り越えながら、ようやく回復していった和枝さんですが、国の態度は冷たいばかりでした。

国は和枝さんの訴えや抗議の電話を受け付けないばかりか、和枝さんを精神病扱いにし、家族になにも説明しないまま、精神病患者のみを収容する国立武蔵療養所に、転院を強要したのです。

転院してまもなく、窓に鉄格子がはめられた病院で、和枝さんは呼吸困難により、窒息死してしまったのです。

幼い被害者と、その母親

横浜市立鉄(くろがね)小学校では運動会が行われていましたが、火炎と黒煙を上げながら墜落していくジェット機を見て、運動会が中断されました。

火は一瞬のうちに付近の公園や民家を巻き込んでいきました。
大やけどを負いながら助けを求める女の人や、血だらけの子どもをだいて逃げる母親の姿もみかけられたといいます。


事件発生と同時に米軍から連絡を受けた自衛隊はすぐに救難ヘリコプターを厚木基地から緊急発進させ、事件発生の10分後には現地の上空に到着しました。


しかし、救難ヘリは大やけどを負って救助を求めている被災者を助ける事なく、墜落前にパラシュートで脱出し、ほとんど無傷で地上に降りた2人の米軍パイロットを乗せて厚木基地に帰ってしまい、再び飛んでくることはありませんでした。

事件直後の様子

横浜の中心部に近い、住宅街として知られる荏田(えだ)町に、午後117分頃、米海軍厚木基地を離陸したジェット機が、荏田町の宅地造成地に墜落した事件です。

荏田(えだ)町は、当時、大型の宅地造成が進み、高層のマンションが立ち並びつつある地域でした。

いつ、どこで??
横浜市緑区(青葉区)の米軍機墜落事件

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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