その1.高岡ひろよさん
高岡(旧姓加藤)ひろよさんは、サンノゼの藤タワーに住む91歳の日系一世です。彼女は1908年3月26日、和歌山県に7人兄弟の三女として生まれました。9歳上の次女のお姉さんは脳膜炎で13歳のとき亡くなりました。
彼女がアメリカに着たとき、お父さんは、もうすでにアメリカで百姓として働いていました。お父さんが、足をいためて日本に一時帰国をしていたときに、ひろよさんは生まれたそうです。そして、ひろよさんが3歳のとき、お母さんと二人でアメリカのロスアンゼルスに移民しました。
アメリカに3年間居て、親は残り、おばさんと日本へ帰りました。日本で女学生、16歳のときに、再度、ロスアンゼルスに行きました。
ひろよさんは、病気のお母さんの看病で大変でした。セロリ作りをしていたお父さんが胃癌でなくなり、その後、妹さんが浅間丸で日本からサンフランシスコに渡り、ロスアンゼルスにやってきました。
お兄さんは、お父さんがなくなった後も農業をして家族を支えていました。そして、ひろよさんは、ロスアンゼルスオリンピックがあった1932年の8月31日に結婚、ストックトンに引っ越しました。だんなさんは、農業の仕事をしていました。
そのころ、アメリカは不景気で、男性が1時間働いて25セントとしかもらえなかったそうです。1935年に長男を産み、1939年に次男を生みました。そのとき家を買いました。
しかし、家を買った3週間後、日本の戦闘機がパールハーバーを襲撃しました。子供が7歳と3歳のときでした。一家は元競馬場だった強制キャンプに行かなくてはなりませんでした。
天井もない、入り口がたったひとつしかない細長い小屋に1942年の5月から11月までの6ヶ月間居ました。
その後、一家は汽車で4,5日間乗って、アーカンソン州の強制キャンプにに移ることになりました。ひろよさんは、汽車から降りて、長い道をひたすら歩きました。そしてロークというところに住むことになりました。
1942年のクリスマスは、メキシコ湾からくる熱風のせいで、とても暑かったのですが、その3日後にロッキー山脈から、今度は吹雪がやってきたという奇妙なことが起こりました。
ひろよさんは、ローク強制キャンプの絵を
1946年のカレンダーにした。
そのキャンプには結局、2年間居ました。日本に帰されるという噂とともに、今度はカリフォルニアのツールレークというところに移されました。そこは、端から端まで3マイル(約4.8km)あり、日系二世の兵隊が訪問にきて写真を撮ってくれました。そこには、日本人学校もありました。
ツーレークキャンプ
当時兵隊だったご主人のいとこが訪問に来てくれたときの写真。左がひろよさん
1年後、日本人は、ようやく開放され、高岡さんはスットクトンに帰りました。けれども家は処分したあとだったので、最初ホテル住まいをしなくてはなりませんでした。
その後、イタリア人の古いあばら家を借り、そこに家族4人で10年間住みました。長男が23歳、次男が19歳のころ、だんなさんは亡くなりました。
ツーレークキャンプ時代。右がご主人
ひろよさんは、ストックトンに帰ってきてから、1年間家政婦をしていました。次男が21歳のとき、トラックの交通事故でなくなりました。
その後、ひろよさんは、デパートで仕立て屋として13年間働きました。65才で退職したのですが、翌年心臓病のため入院しました。
そして、1975年にできた藤タワーに入居しました。
*** 藤タワー:日系人高齢者向け施設
その2:
日系二世の92歳の男性はワトソンビルに住んでいましたが、強制キャンプから開放された後、ルイジアナ州に引っ越しました。
彼は、庭師として働いていました。奥さんの死後、カリフォルニア州のサラトガにいる娘の家族と住むことになりました。彼は、日本語、英語とどちらとも上手にしゃべることができます。娘さんが味噌汁を作るときが一番うれしいのだそうです。
その3:
カリフォルニア州キャンベルに住む94歳になる一世の女性は、日本で生まれ、1818年に「結婚花嫁」としてシベリアという船でサンフランシスコに着ました。
彼女は、旦那さんと結婚する前に、キリスト教の人たちに家事を習いました。3人の子供たちには、日本人は日本人と結婚したほうが良いといつも言っていました。
それは、同じ経験を持っていた人のほうが、深く分かり合えるからです。彼女は、結婚相手は、自分で選ぶ自由があり、自分が結婚したい人とするのものだといっています。
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