1941年12月7日にパールハーバが攻撃された。翌日、アメリカが日本に対して宣戦布告する。当時米国政府は日本人移民に疑惑を持っていた。この疑惑は笑えるほど根も葉もないようなもので、たとえば、日系アメリカ人がイチゴ畑で大きな矢印をつくり、日本の空軍に発電所や政府の建物へ指図すている思う人もいた。実際には、日本の飛行機は一つもアメリカまでくることがなかった。日系人は全員怪しくみられた。
ある人が日系移民に容疑をかけて、FBIなどがハワイの
日系社会で重要な人物を拘留する。なぜ拘留した訳も説明せず、政治は法を無視した。やがてルーゼルベルト大統領が大統領命9066に署名。これは日系人をキャンプへ入れることを認めるものだった。
1942年米軍から出された日系人抑留命令
自分の意志でキャンプへ入った人はいくらかいたが、ほぼ全員、無理に家を追われた。
これは民権を無視したもので、移動させられた人たちは家などを売らなければならなかった。ほとんどが、市場価格の数10%で売るしかなかった。皮肉なことに、彼ら日系人は、尊厳が奪われてもアメリカへの愛情のため、無抵抗にキャンプへいった。
キャンプ入りのための家具の安売り
ロスアンゼルスに近いターミナル島の日系移民は1942年2月25日にキャンプに入れられた。4月になってから市民権除外法が施行され、多くの西海岸の日系人は”アセンブリセンター”へ送られた。
抑留キャンプ地図
アセンブリセンターから次の10個所のキャンプへ振り分けられた。
ギラ リバー キャンプ(アリゾナ州)
ポストン
キャンプ(アリゾナ州)
ジェローム キャンプ(アーカンソー州)
ローワー キャンプ(アーカンソー州)
マンザナール キャンプ(カリフォルニア州)
ツールレイク キャンプ(カリフォルニア州)
アマチェ キャンプ(コロラド州)
ミニドカ キャンプ(アイダホ州)
トパーズ キャンプ((ユタ州)
ハートマウンテン キャンプ((ワィオミング州)
合計110000の日系人(内70、000人はアメリカ生まれの二世)がキャンプに入った。そのほか、2200人の南米の日系人も自国からアメリカ合衆国のキャンプへ送られて来た。
尊厳高い日系人は、日本に対する愛国心も当然強いと、米国政府はおそれた。だから日系人をキャンプに収容した。しかし皮肉なことに、収容された日系人は、アメリカに忠実で、政府の方針に大人しくしたがった。
当局(WRA)はキャンプ内を普通の生活と同じようにしようとしたが、監視タワーや鉄条網、人の生活に向いてない土地(砂漠、沼、山など)に建てられたので、収容された日系人たちはかなり辛い生活を余儀なくされた。
抑留された多くの年輩者は、蓄えた財産を失い、家族とも離され、希望を失い、そのアメリカンドリームを断ち切られた。
しかし、ハワイでは、
ハワイ経済は日系人に頼っていたので、日系人はほとんどキャンプには収容されなかった。ただ、夜間外出禁止命が作ら、少数の日系人リーダーだけが、収容されたが、本土の日系人に比べるとその待遇は比較にならないほどよかった。
トルーマン大統領は、終戦後の1948年6月2日に日系人戦時立ち退き損害賠償法案に署名。この法令はキャンプに入らされたため損害を被った日系人に損害賠償するのが目的だった。しかし、日系人全体が被った損害額380億ドルには遠く及ばなかった。
ようやくレーガン大統領がHR442に署名。賠償額は一人に2万ドルになった。また、1999年にも、戦争当時、収容させられた南アメリカの日系人にもわずかながら賠償金を払うことが決定している。
これは、400人の被収容者のうち、375人に5千ドルが支払われる予定。これで喜ぶ人は、余りいないがせめて少しでも、戦争被害の決着がつくと多くの人は考えている。
当時収容されていた、松林和夫さん(62)は、
「人生、やり直すことはできません。過去はどうにもならないから、これからの人生をただやって行くのみです。」と言っている。