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古代日本の硬貨

富本銭

1998年に飛鳥池遺跡(奈良県)から40枚の富本銭が見つかりました。600年代の地層から見つかったため、和同開珎よりも古い貨幣が日本に存在したという証拠になりました。600年代当時、飛鳥池遺跡があったところは藤原京の中心地でした。それに対して見つかった枚数が都で流通しているにはあまりにも少ないため、まじない用に用いられたと考えられています。(このような硬貨を厭勝銭といいます。以下で解説しています。)

和同開珎

紀元前後の中国の銅貨が遺跡から出土していることから、日本でお金が使われるようになったのはこのころと考えられています。しかし、これらの硬貨は厭勝銭(えんしょうせん)とよばれる、用途が商業ではなく、主に魔除けやおまじないであるものでした。

富本銭と和同開珎

最初に本格的、かつ継続的に作られた硬貨として有名な和同開珎(わどうかいちん・わどうかいほう)は、主に朝廷が官人などの功を認める際に、その証として使われていました。また、和同開珎の価値を非常に高く設定し、銭の発行で朝廷の財政を豊かにしようとしていました。

この政策は中国の貨幣政策をもとにしたもので、政策のため、蓄銭叙位法という法律も作られました。これは、銭を蓄えたものには官位を与えるというもので、銭の流通を促進するために作られました。しかし、朝廷の定めた銭の価値は、発行後たちまち暴落してしまいます。

それに対応するため、朝廷は新たに旧銭の10倍の価値とする 新銭を鋳造しますが、それもすぐに価値が暴落してしまいます。朝廷は新銭を再び鋳造しますが、その価値も暴落します。このようにして、このころ作られたたくさんの種類がある銭は皇朝十二銭と呼ばれています。しかしながら、当時とても銅が貴重だったことや、朝廷の熱意も冷めたことから乾元大宝(けんげんたいほう)を最後に、朝廷による銭貨の鋳造は行われなくなります。

和同開珎の読み方

和同開珎は「わどうかいちん」と「わどうかいほう」の2種類の読み方があります。現在ではかいちん」と読む説が有力です。「かいほう」説は」のうかんむりと貝を省略して「珎」にしたという考え方をしています。しかしながら、当時の書物のなかに「珎寳」という言葉が含まれていることからこの説には疑問が生じます。さらに「珎」は「」の俗字であるとされています。そのため現在は「わどうかいちん」と読むのが一般的となっています。

まとめ

古代日本では富本銭などの厭勝銭が使われていた。
和同開珎は日本で初めて本格的、かつ継続的に硬貨として用いられた。
その後、硬貨の価値の暴落新銭の鋳造が繰り返され、朝廷による銭貨の鋳造は行われなくなった。

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