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第一次世界大戦後のドイツにおけるインフレ
第一次世界大戦後のドイツは、戦争の影響で経済が混乱したほか、戦勝国から莫大な賠償金を課せられました。あまりに多額だったため、ドイツはとりあえず紙幣をたくさん発行し、賠償金の支払いに充てました。
社会に流通するお金の量が増えるわけですから、お金の価値は下がり、物価は上がります。しかしながら、賠償金の返済はなかなか済みません。それに耐えかねて、ドイツ政府の賠償金支払いが滞ってしまうと、1923年、フランスなどがドイツのルール地方に進駐、これを機に、インフレが一層激化してハイパーインフレとなります。それ以前の1915年頃から、銀貨や少額硬貨の不足が続いていました。しかし、この事件を皮切りに一気にインフレが進み、硬貨をはじめ、銀貨、ニッケル貨、銅貨も大幅に不足し、結果として人々はつり銭など、日常の生活に支障をもたらしました。
しかし、このようなインフレ下で、政府が貨幣の供給をしたところで、価値が下がるスピードが著しく早いためすぐに使えなくなってしまい、結果的に無駄手間となってしまいます。そこで、各地方の役所が造幣局の代わりとなって小額紙幣を発行するようになります。これを、「ノートゲルト」と言います。
1914年にブレーメンで発行されると、それを境に各地で発行が相次ぎ、その年のうちに452の市町村、5500種類ものノートゲルトが誕生しました。それでもインフレは止まらず、1916年から同22年までの間に3658か所、36000種ものノートゲルトが発行されたといいます。
その後の更なるインフレの加速により、より高額な「グロースゲルト」が相次いで発行されます。あまりに大量のノートゲルトが発行されたため、どれが本物でどれが偽物なのか見分けがつかなくなるほどになっていました。
ノートゲルトは当然のことながらドイツ全国で統一されていませんでした。全体にみられる特徴として、小型の寸法と、凸版の多色刷りであったこと、色調はカラフルで、ベタ刷り印刷方式が多いというものがあります。また、一般に用紙に透かしは入っておらず、用紙は分厚めでした。発行された地域の特徴的な建造物や、経済混乱、ポスターのようなもの、さらには風刺漫画のようなものなど、ユニークな絵柄が多かったです。大変種類が多いことや、インフレによる価値の暴落により、たくさんのノートゲルトが今でも残っています。
第一次世界大戦後のドイツは、賠償金に充てるために、紙幣をたくさん発行した。
社会に大量のお金が出回って物価が上がり、ハイパーインフレになった。
各地の役所が造幣局の代わりとなり、小額紙幣・ノートゲルトを発行した。