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11、檸檬爆弾ー@
「丸善」に入り、再び憂鬱な気分になってしまった「私」は
ある事を思いつきます。
画本を積み上げ、その上に檸檬を置くということです。
そうすることによって「私」は憂鬱が解消されるように思うのですが
では何故「私」はそうすることによって
憂鬱が解消される様に思われたのでしょうか?
そしてそれは「私」にとってどのような意味をもつことになったのでしょうか?

でふれたように「私」にとって檸檬は
善や美の象徴のような役割を持っています。
そして檸檬は「不吉な塊」を緩めてくれる存在でした。
ですから「私」は「丸善」の
なかに漂う憂鬱を
やっつけてくれると考えたのです。
そうして「私」は画本を積み重ね始めます。
その工程での「私」の心には
「先ほどの軽やかな昂奮が帰って」きます。
憂鬱に押さえつけられていた心は
「軽く跳りあがる」ほどまで回復します。
その積み重ねた画本の上に檸檬を据えてみると、
「その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調を
ひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、
カーンと冴えかえっていた。」のです。
檸檬が吸収した雑多な色の階調は、
いうまでもなく「丸善」の憂鬱を象徴し、
「私」の憂鬱の実態である「書籍、学生、勘定台」を
檸檬が見事に吸収してしまったのでした。

12,檸檬爆弾ーA
そして「私」はまたある事を思いつきます。

「それをそのままにしておいて私は、
なに喰わぬ顔をして外へ出る。」

この考えに「私」自身も「ぎょっと」します。
これは でふれた心の不思議さに通じています。
それから「私」は「変にくすぐったい気持ち」になります。
これは
いろいろな事が考えられますが、誰も知らない企みを
自分自身が実行しようとしていることへの
心が躍るような気持ちがあります。
では「私」が想像の中で「丸善」を爆破する事には
どのような気持ちがこめられているのでしょうか?
重苦しく、気詰まりな場所としての「丸善」には
現実の「居たたま」れなさの象徴になっています。
その「丸善」を爆破したいという思いには、
気詰まりで重苦しい現実から逃げ出したいという
強い願望がこめられているのです。
しかし、最後の一文のように「活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極」を下らなければならないのです。
だからこそ空想のなかで自分を遊ばせる事に熱心になリます。 そうならざるを得ないのです(それ以外に「私」を救う方法もない→
そしてのように檸檬は「不吉な塊」に対抗できる唯一のものです だからこそ檸檬を現実を破壊する力を持つ「爆弾」に見たてたのです。

檸檬の役割の変化→クリック