Q;古木なんかでも、「これはいいな」と思ったり「これはそうでもないな」と思ったり、選ぶんですか?
A;人によってもこれは、3人が3人の絵や彫刻やる人がいたら、「おれはこっちがいい」「いや自分はこっちだ」と、これは必ずそうなると思いますよ。人間だってそうでしょう。3人で歩いていて向こうから女性がいっぱい来たら、皆同じところへいくこともあるかもしれないけれど、皆それぞれ好みが違うでしょう。
Q;やはり好み、ということになりますか?
A;好みっていうと趣味みたいになっちゃうけど、二十年なり生きてきた青年の耐えだとか誠実さがない混ぜになって、ものを見るときの物差しが違ってくるはずですよ、少しずつ。そうでしょう? こういう古木を見て、好きで描く人と、なにも描かないで通りすぎちゃう人といるわけですから。何の興味もない人だっているわけですから……なんか汚いなあ、と思う人だっているかもしれない。
Q;そういう取捨選択する目というのは、簡単には手に入らないものですよね。
A;皆それなりの……作家はこういうこと言うと皆自分へ跳ね返ってきちゃうけど……苦労とかなんとかがね。ああ落ち葉だななんて思わずに……あなたたちはどうか知らないけれども……僕なんかは通りすぎてたわけですよ。それがこの頃拾うようになってきて、帰ってすぐに描くんですよ、こういうのを。で、2日ぐらい経つと、すぐからからに乾いちゃって、茶色くなるんですよ。描いてて、なんて自然っていうのはきれいなもんだなあと思ってね。うまくいかないんです、これ全部。しばらくして忘れたころにスケッチを見ると、「おお、うまいもの描いたもんだ」と自分で見えるんです、面白いもんですねこれ。よくおれは、これを描けたなっていう気がするんです。枯れると汚いですけど、見方によって面白い。これなんかも、もっと深い色をもってるはずなんです。
けど実物がそこにあったときには、「ああ、かなわないな」と、必ずそう思います。そしてあとで見ると「ああ、よく描いたな」って思う……いい気なもんですよ。
Q;ヘンリー・ムーアさんのアトリエへ行かれたとき、アトリエに置かれた流木や石ころを見て、「ああ、これのことだったのか」と感じたと著書に書かれていますが。
A;ヘンリー・ムーア先生のところに、20年の間に3回、僕はおじゃましてるんですよ。僕はどうしても英語をしゃべるのがだめで、だから必ずしゃべれる人と一緒に行ってるんですが。一番最初に通されたのが12畳間ぐらいの応接間だったんですよ。(書棚を指さして)そこにムーア先生の作品集がありますけど、先生が自転車に乗って公園を走ってる写真が載ってたんですよ。ところが公園かと思ったら、先生のアトリエなんですよ。あれ、なんですかね、税金が違うんですかね、村みたいに見えますよ、羊を100頭ぐらい飼ってますよ……いや、50頭かな。羊小屋があってね……その大きなテーブルの上に、こういうのが(丸みを帯びた石を指す)いっぱい置いてあるんですよ。ヘンリー・ムーアの彫刻みたいでしょ? これ。こういうのがずらーっと並んでるんです。近代ではロダンの彫刻とか、それからアフリカの土人(原住民)の彫刻とかがある、その部屋に通されたんですよ。ロンドンとかあっちの近くの海岸で拾ったようなことを聞きましたが。我々みたいな浅はかな人間は「あ! この手でいったんだな」と思うでしょう。ですがああいう大家というのは、それをずばっと見せて、「悔しかったら真似してみろよ」と……別に意地の悪い卑しい気持ちでいってるんじゃないですよ。これが卑しい作家だったら、創作の秘密は人に見せないほうがいいからとかなんとかいって隠しておいて、ちょっと格好をつけて「これとこれを組み合わせたら芸術になるな」、なんて思うかもしれないけれども。ムーアさんは全部見せてるんですよ、最初から。初めて行った東洋の名もない彫刻家にね。つまり本当に何かを掴んだ人の大きさと、あの手この手でいってる人との差っていうのは全然違うと思うんですよ。僕は感動したのね。それから夕方伺ったんだけども、ちょうどその辺の工事場のおじさんみたいな作業服を着た、背の低い人でね。全然偉そうな感じじゃないんですよ。
3度目に伺ったときは、2月が展覧会だったときに、ヘンリー・ムーア先生がもう危篤だって話を聞いてたもので、もうお目にかかれないと思ってたんです。彫刻の有名な画商さんが一緒だったんで、彼が財団に用があって一緒に行ったら、秘書の人がいて、佐藤忠良が来てるというようなことを言ってくれたらしいんですね。それで20分ほど待たされてどうぞといわれて病室へ入ったら……1月に危篤だって聞いたのに、先生が背広とネクタイを着けてベッドのそばで待っててくれたんですね。僕はどうせお会いできないと思って、とっくりのセーターを着ていったんです、上着は着てましたけどね。それで僕は感動したの、なんて偉い人なんだろうなと思ったんですよ。東洋の名もない彫刻家がいったってだけで通してくれて、背広を着てベッドのそばでこうして待っててくれるなんてね、ちょっとできないわざですよ。僕も皆さんが来てくれて、本当は背広着てなきゃいけないんでしょうけど。すごい人だなあ、と思ったんですよ。本当に偉い人っていうのは偉ぶらないもんなんだなあ、っていうのを感じさせられて……もうちょっと前にお会いしてたら、僕はもう少し反省してたんだろうけどね。
日本の代議士みたいに、偉そうな格好なんかしないんですよ、母ちゃんと二人で土下座してね、お願いしますって言って……それで当選すると偉そうになるでしょ? ああいうのは実力のない証拠ですけどね……ヘンリー・ムーア先生ってのは、あれだけの作品を生み出したっていうのに、ほんとにどこにでもいるじいさんみたいな人でね。
あれだけの作品を生み出したっていうのは、隣人(となりびと)に対する、怒りと喜びと悲しみですよ。炭坑町で育った人ですからね。市民がずらっと寝てるデッサンなんかがありますよ、防空壕の中で。そういう感情を持って作品を造っている方が、晩年になって1ヵ月か2ヵ月前に危篤だった人が、私のような人間にでも背広着てネクタイを締めて待っててくださったという、優しさと素晴らしさっていうものには、本当に考えさせられました。私はヘンリー・ムーア先生に3回お目にかかりましたが、感動しました。
Q;作家の魂の強さっていうことをおっしゃってますが、僕も言葉で聞くとわかったような気になるんですが、先生がヘンリー・ムーア先生から感じた創作の秘密というようなものは……。
A;これも、いかにもそれに合わせたような話になりそうですが……日本の原爆の彫刻を造ってるんですよ、雲みたいな形の。日本で大きなヘンリー・ムーア展をやったとき、上野のあの鳩のいる広場……美術館や博物館のある……あそこに大きな石のその彫刻が置いてあったですよ。
わざわざただで造ってね。頼まれたんじゃないんですよ。まあ金持ちだっていうことは別問題にしても……怒りですよ、これは。落としたアメリカに対する怒りなのか、かわいそうに日本人って思ったいたわりなのか、それはわからないんですけれどもね。デッサンにしても、人々が寄り添っていたわりあっているようなのが多いですよね。
本当にすばらしい偉い人なんだなって思いましたね、作品で示しているんですから。
ただムーア先生だって、怒りと喜びと悲しみについて、よし描いてやろう造ってやろうと思っても、これでうまくいったっていうことは……これは推測だからわからないですけれどもね……たぶん、なかったんじゃないだろうかと思うんだね。おれは表現し切れなかったっていう悔しさがあったんじゃないだろうか、って思いますね。これは押しつけちゃいけないですけど。これでいいってことがないから、また挑戦するんじゃないですかね。
Q;「憧れのないところにいろんなものは成就しない」と著書に書かれていますが、子どもたちが何かを造ろうというとき「憧れをもつ」ということについて少しお話しいただけませんか。
A;憧れっていうと、ひとつの美しいものとか、形だけの美しさになって、心の美しさとか、素晴らしい人、物といったものに対する思いがあると思います。たださっきいったように、ヘンリームーア先生のことでいったように、人を思いながら悲しんでいるという、その切ない怒りや悲しみまでひっくるめて、ぼくは憧れっていいたいんですけどね。憧れっていう言葉の中には、ひとつの理想っていうか、そういうものに対する……まあ、人によって違うけれども、作家や表現っていうのは、そういう憧れが絵になったり彫刻になったり音楽になったりするわけですけども。
Q;それはやはり、人生観ですよね。
A;だろうと思いますね。自分が錯覚して、それができないと思う……言葉でいうと恰好つきますけどね、作品それ自体はあまり語っていないんです、私の場合は。
昨日も上野美術館で有名な展覧会があったんですが、がっかりして帰ってきたんですよ。昔有名だった人が、ほんとにひどい仕事をしてるんです。
今日ぼくも、2〜3年前に造ったやつを造り直してて……がっかりしちゃったんですよ、モデルさんも来てたんですけど……おれはなんてひどい作家になってしまったんだろうって。だからもう壊そうと思って、午前中に壊しちゃったんですけどね。だめなもんですねえ……どうしてだろう……卑しさがあるのかなあ……格好つけようと思ってうけを狙ってるのか。全然だめで……人のことはいえない。年をとってから良くなった作家っていうのは、日本の絵描きさんなんかにはいますけど、ほんとそんなにないんじゃないですかね。情けないもんですよ。
Q;先生が「切なさ」という言葉をよく使っていらっしゃるように思われるんですが、どのようなことですか?
A;闘おうとしてるわけですよね。失敗ねえ……全部失敗みたいなもんですよ。ぼくは評判になるのは、全部失敗したなあと思ったものばかりなんですよ。
「群馬の人」のときも、一番最初に造ったときにね、ブロンズにして……会だから決まった期限があるわけですよ。みんなで一緒に出すわけです。「こんなジャガイモみたいな顔を出して」と自分でも思っていました。ところが出してみたら、びっくりするぐらい評判になっちゃって、「日本人の手で初めて、日本人の顔ができた」といわれて。その後、「常磐の大工」とか「北国の娘」とか「木曽」だとか、ぶ男・ぶ女が割合多かったんです。佐藤忠良の地方巡りとか、きたな造り好みとか、批評に書かれたんです。
有名な絵描きで、割合にぶ男な人で……標準からいうとね、ぼくにはとても魅力的な顔だったんだけども、井上という人が個展やってたから初日にいって会って、「井上さん、顔造りたい」といったら「おれはそんなにぶ男か」っていわれて。批評を読んでたらしいのね。