Q;失敗を繰り返すことについて。特に子どもの教育で「つくる」という行為において、何が今の教育に足りないと思われますか。
A;触覚感でしょうね。なんでかというと、我々はお互いに生物なんですよ、これ。種が結びあって生まれてくる、生物です。原始時代から、人類が生まれてきたときから……生まれる物って書いて生物ですからね。それがだんだん、いろんなものが便利になってきた。我々の頃は自転車もタクシーもテレビもないから、全部自分でやるよりしょうがなかった。いまは全部揃ってから歩くから、ひっくり返って膝にヨードチンキをつけて泣きながら歩いてる子なんか、ほとんどないでしょう? 転ばないようにしてるから。
そういうことを続けていると、生物としての感覚が鈍ってくるんじゃないかと、私は思ってるんですよ。それから学校では、できるだけ失敗しないような教育をさせてると思うんですね。でも、うんと失敗したほうがいいと思うんです、人間ってのは。私の経験からいうと。失敗の連続で死んでいくに違いないと思うんだな。愛情だってそうでしょう。錯覚ですからね、あの恋愛なんていうのは。錯覚がだんだん絡みあってきて混ざりあっていけば、夫婦になって、闘いながらお互いに死んでいけるわけで。
昔は、あなたが好きだよ、っていうまでにずいぶん時間がかかって、我々の頃っていうのは。手紙というか、ラブレターを出すまでに大変時間がかかったりして……直接「好きだ」って告白できるまでずいぶん時間がかかった人が多かった。いまはすぐ抱いて、チュウなんかしたりして、やめろって言いたくなるんですがね。
触覚感の前にね、「切なさ」がないですよ。子ども向けにはちょっと具合悪いかもしれないけどね。もっとひとつのことに取り組んだら、何度も何度も失敗して、キャリアを重ねていくと芯ができていくんじゃないかとぼくは思うんですけど……なにもわざわざ失敗してみる必要はないんだけれども、何かものを造るときには失敗はあるはずですよ、必ずって言ってもいいくらい。それをまわりがあんまり恐れずに、やらせたほうがいいですよ。
彫刻の学生を扱ってみてよくわかるんです。この子たちは(笹戸さん)1期生ですから、昔と同じようなやり方をさせたんですよ。2年目から、ああこれは体を使ってきてない……もう30年前ですけどね……我々の時代からみてということですけど、そう思いました。私は大学に入ってすぐ、鉄の棒を1本ずつ与えて、コークスで火を起こして、焼いて打たせて、それでノミを作らせたんです。店に行けばあるんですよ、そりゃ。いくらでも売ってるんです。でも作らせるのを今でもやってますよ。
彫刻を載せる四角い台がありますね、あそこに。それも作らせるんです。ミカゲ石があるでしょ、それをみんなに与えてね、ノミの先を尖らせてね。大学に入ったら裸体でもデッサンして、すぐに彫刻ができるだろうと思ってたら、そういうことをやらせられるもんで、みんながっかりしちゃうんだね。とにかくそういう風に体をいじめて、体で覚えるものですからね。それから30何年間ずうっと、私がやってきたことを今でもやってくれてるみたいですけれどもね。
これが、触覚感の回復だと思ってますから。まあこれは、老人の心配なのかもしれませんが。
Q;個性ということについて。例えば100メートル走で、1位と2位でほんの僅かしか違わないけれど、お互いにその違いは十分に分かっているはずだ、というような、、。
A;今はね、文部大臣から総理大臣まで「個性、個性」というけれども、確かに恰好いいんですよね、個性尊重っていうのは。で「個性って何だ」ということを聞いた場合、あの人たちでわかっている人はいないんじゃないかとぼくは思う。生まれたときから変わった子だとか、エキセントリックなものを個性だと思ったら、それは大間違いだと思うんです。
私がシベリアに捕虜になっていったとき、検査があっていろんなものを全部取り上げられたんですがね、その時一つの本を隠して収容所に持ってきた人がいてね。徒然草じゃなかったか……文学に詳しい人ならすぐに分かると思うんですけどね……「習いごとは枠に入って枠を出でよ」という言葉を読んだのを忘れないんですけど。ハッと思ったんです。「芸術は爆発だ」とかいって、小さい頃から爆発してるのが多いですが。
大学生の新入生たちが来るといつも言ってるんですがね、「君たちは4年保育だよ」って。びっくりした顔で見てるんですよ、大学に来て4年保育だなんていわれてね。それから挨拶し合おうな、っていうこともね。これも、なんでもないことなんですがね。女の人は割合挨拶しますけど、男の人ってのは1回挨拶しそこなっちゃうとね、意識しながらも、なかなかそれから挨拶するってのが難しいんですよ。今の学生は「なんで挨拶しなくちゃいけないんですか」なんて質問するのもいますけどね。「ぼくは明治生まれの人間だから、廊下で黙ってすれ違われると、馬鹿にされてるんじゃないかと思うかもしれない。だから彫刻の教室へ入っていってもひがみっぽくなって、君を抜かして通りすぎるかもしれないから、挨拶し合おう」って、そういってるんですよ。
名誉教授なんで、年に1〜2回見にいくので、そのときの話なんですがね。人間っていうのは、付き合いとか挨拶という、なんでも無いようなことがね。こういったことは、一つの枠ですよ。気持ちが接触する最初のきっかけになるようなものね。
これは新聞で読んだんですが、記者の人がある芸術大学にいったときに教授が「芸術は教えるものでも教わるものでもない」といったが、私にはそれがどうしてもわからなかった、と書いてました。よくそういうことをいうとね、なんだかすごく深みのある、含蓄のある言葉のように聞こえますが、学校の門をくぐった時点で教師は教える人なんですよ。そして学生は習う人。そのために授業料を納めてて、先生はそこから給料をもらってるんですからね、俗な話でいうと。門から出れば私みたいなのは永福町のじじいになって帰ってくる、学生はただの若者に戻る。それが学校で、そうでないのなら学校なんて作る必要はないんですよ。さっきのようなことをいう先生は、きっと教える力がないんだろうと私は思う。
学校で、ちゃんと枠をはめるだけの力を持った人が教師になってなきゃいけない。枠ってなんだろうかっていえば、まあ人生でいえば、挨拶のはじまりのようなもんでね。だから「好きなようにやれよ」っていってると、面白い子はできるかもしれないけど、友だちや仲間や夫婦などの、本当に深い付き合いはできないまま別れちゃうんじゃないかと、そんな気がするんですけどね。我々のような仕事でもね、やはり基礎ってのは必要だと思うんですよ。基礎っていったいなんだろうかって話にもなるかもしれませんけどもね。
さっきの話でいえば、100メートルの競争で1番になった人と2番になった人との違いっていうのはね、走ってる本人っていうのは本当にもう血を吐くような思いで、あのテープを切るんだろうと思うんです。1番になった人間は、ほんとにすごいとぼくは思う。2番になった人間が「おれは向かい風に弱い」とか「途中に石ころがあった」だのいっても、これが職人だったら、走る職人だったら、こんなのは理屈になんないですよ。なにがあったってそれは、飛び越えていかなきゃならないように、訓練をしていかなければいけないもんですよ。そのことをぼくは、1番か2番かの差っていってるわけです。すごい差があると思うんですよ、たったテープ一つの差でもね。
Q;作家の個性としての終盤のあたりの、本当にぎりぎりのところに近づかないと見えてこない、というようなことを語っておられますが。
A;私は明治の人間なので古くさい話ばかりしてますがね、例えばレオナルド・ダ・ビンチのルネッサンスの頃、我々の頃はダ・ビンチ、ミケランジェロ、ラファエロしかいない、みたいな3人だけ出てきたんですよね。で、その3人がものすごい人間だったかというとね……日本の美術館かどこかでも、ダ・ビンチのデッサンを持っててそれが偽物だという話があったりして、捨てるわけにもいかない。今それを見極められる人がいないかもしれないしね。そういう偽物みたいなものがいくつも出てるんです。それはあとの人間が、つまり現代の人間が作ったんじゃなくてね、その時代に作られたんです。その頃は徒弟制度だったですからね、それから日本でいえば仏像なんていうのも徒弟制度です。
徒弟制度っていうと、個性やなんかは生まれてこないようだけれども、親方がしっかりと徒弟制度で教えたから。日本の五重塔なんかでもそうでしょう。親方が大学出たわけでもないのに、弟子にしっかりと秘密なしで技術を伝えたから、何百年経って今でも残ってる。しかも強いだけじゃなくて、美しい強さ。五重塔だったら、あの5枚の屋根が全部下がっていたら、下に立った人間は腰をつきたくなっちゃう。あれ、下がっててキュッとまくりをね、作用と反作用ですよ。建築の学校を出てるわけでもないのに、親方が長い間の失敗の歴史の中で、それを身に付けて、それを弟子に伝えてるからです。だから一度見ても、また見にいきたくなるようなものができる。ギリシャでも、奈良でも。これは徒弟制度で、ちゃんとやってきた、造形のひとつの秘密のようなものですよ。
あの頃、なぜダ・ビンチたちが残ってるのか……3人しかいなかったんじゃないんです。偽物か本物か分からないものが残ってるっていうのは、きっとあの3人は同じような仲間たちの中で、精神の高さがね、おそらくほんのタッチの差で優れていた男たちじゃなかったのかな、と思うんです。それがぴかっと光って、同じような技術に見えたのは、それが、本当に個性といえるんじゃないかと思うんです。さっきの100メートルの話も、1番と2番の違いっていうのもそういうことなんじゃないか、と……これは私が最近になって、思ったことですが。まあ長い88年間の中ですから2〜3年前ということじゃないですが、言えるように、書けるようになったというのは、晩年にきてなんと大変なことだろうなと思って、気がついて言葉になったんですね。それだけ競り合った中での精神の高さっていうのが、それが個性っていうんじゃないかなと、ぼくは思うんですがね。