Q;絵画などと違って、彫刻は眼から造ることはできないといいますが、やはり関節やなんかをしっかり見てつくるのですか。
A;そうです。基礎をきちっとやらないと嘘になりますからね。相当有名な人でも、馬や犬を描いたのを見てるとちょっとおかしいなと感じることはありますよ。やっぱり少しは解剖学を知ってないと……ダ・ビンチなんか、自分で人体を解剖して造ったんですから。すごいですよ。大した勇気ですよね、怖いですよ、人体を解剖してその解剖図を全部つくってるんですから。不便だったからそういうことをやらざるを得なかったんでしょうけれども。 |
Q;先生は具象彫刻で自然から学ぶわけですよね。
A;例えばわれわれが学校に入った頃は、朝倉先生や北村先生……あの長崎の恥ずかしいこんなの造った先生ですがね。あの頃まではイタリア・アカデミズムの先生を日本が呼んで、それで美術学校みたいなものをつくったんですが。イタリア・アカデミズムの、ルネッサンスのね、イタリア貴族に遣えてきていわゆるアカデミックな彫刻になったのが、朝倉先生あたりまで。そこへロダンが出てきたんです。鼻のつぶれた男なんて、あんなのは失礼な芸術だったんです。貴族に遣えた芸術の時代ですからね、美男美女でなければならなかったんですよ。それがこんなのを造りだしたんですよ。
それがフランスでは落選させたり、それから青銅時代って裸の……美術学校の庭にありますけどね、あの当時人間から型取ったんだろうっていって落選させられたりしたらしいんですよね。そういう時代なんですよ。イタリア・アカデミズムを否定するのが、フランスのロダンから。高村光太郎のロダンの言葉が今でもそこにありますが、ボロボロになって表紙を新しくしてね。この本1円だったですよ。あの頃1円ってのは大変だったんですよ。母から12円送ってもらって、食堂で飯を食って9円、1ヵ月9円で飯を食ったんですよ。あと3円で2人で部屋を借りて、全部歩きですよ、コーヒーなんか飲めなかったんだから。朝8銭、夜10銭、1円だったら相当飯食えたんだよ。憧れてたんですよ、ロダンに。フランス彫刻にね。北村先生だとか朝倉先生が入ってくると、アカデミックだなんていって教室から出ちゃったりね、生意気だったから。そういうもんなんですよ。
卒業してから先生とお付き合いさせていただいて、ずいぶんいろんな言葉をね、身にしみましたよ。娘たちとも友達だったせいもあるけど。このデッサンがよくてね、わざわざ買ったんですよ。 |
Q;新しい方向にひかれたということですか。
A;そうだね。生き様っていうのは、ただ人体をこうやればきれいに、寸法のいいプロポーションのいい人体ができるんだっていうんじゃなくてね。鼻のつぶれた顔とか、こんなような娼婦たりし女とかね、お婆さん造ってんですよ、昔身体を売ってた女の。ああいうのなんか失礼な芸術だったんですよ、その当時は。人間の心の生き様を見せるのが、ロダンだったんです。それにぼくたちの時代は全部ひかれていったんですよ。
先生とお付き合いさせてもらっていろいろ教えてもらいました。「佐藤君、きみね、モデル見ないで肩ができるかね」っていうんですよ。できるっていえばできるんですよ、肩でも鼻でもね。でも「僕は難しくて、なかなかね」とおっしゃるから、できますとは言えないから「はあ」っていってね。あとからわかったんですよ。下手な彫刻でも大体、手を取ると良くないんですよ。ミロのビーナスなんか、あれ、手がついてたら案外つまんないかもしれないですよ。バナナとかりんごなんか持ってたりしたらね。ルネッサンスのずっと後期の物ですからね。
皆さんも、写真を写しますよっていわれると、こんな風にすると格好つくんだけど……どうしていいかわからないんですよ、手が。手のやり場に困るんですね。劇団・民芸のパンフレットにも書いたけれども、芝居見てても踊り見てても、ぼくは手の動きがすごく気になるんですよ。目立ちたがるんです、手ってやつは。
「手も足も出ない」って言葉があるけども、これは少しできすぎたことかもしれないけど、日本画から出た言葉だって何かで読んで、なるほどなと思ったんですが。昔の日本画ってのは、長い袴なんかはいて足を隠して、袖の中へ手を隠して……そうすると、下手な絵でも見れるんですよ。これがちょっと出しちゃうと、手のやり場に困るんですよ。ね。足よりも手のほうが、言葉がずっと多いんですよ。足が10なら、手も10でいいはずですよ。一緒になって連動してるんですよ。ところが手は、一人で目立ちたがるんです。
学生によくいうのは、皆さんも靴を脱いで足の指を見ればわかるんですが、ご承知かもしれませんが、親指はちょっとこっちを向いてますよ。地球を、ちょっと掴んでるんですよ、こういうふうに。手は大体まっすぐでしょ? 足はきっとこうなってるはずです、人によってちょっとは違うかもしれないけど。ぼくたちはこうやった瞬間にも、足が地球を掴もうとしてるんですよ。安定を図ってね。苦労してんですよ、この靴下の中で。それをそこまでちゃんとね、教えるときはちゃんとね……リアリズムっていうのは、そういうもんなんですよ。
ところがいまの学生たちは、ピアノを弾くみたいにトントントンと五本指をやってるのが多いんですよ。自分の学校で、先生がなにを教えてんのか、本当に困っちゃうんですよ……こんなこというと、細かいことばっかりいってるっていうかもしれないですがね、これは大切なことです。人体やってる以上はね、それをちゃんと教える先生がいなくちゃいけないんですよ。足の指はこうなって……こうなって……こう、こう……こうなってるはずですよ。だから手も足も出ないってのは、日本画から出たっていうのは、ぼくはなるほどと思ったけれどね。 |
Q;人間の体っていうのは、手と足と……6つのパーツでできていて、それで造り出していくわけですよね。そういう丁寧に見るっていうことが大事なんですか?ピカソの山羊の眼の話みたいに。
A;あれも、シベリアへ行ってびっくりしたんですよ。今まで山羊の眼でも羊の眼でも……猫は知ってましたがね……こういうふうに丸い中で光に当たると縦に、こうなってね、シャッターが閉まるように。ところがぼくも群馬の人と一緒に住んでた頃は、羊や山羊を見てたくせに、目は丸いと思ってた。シベリアでなにも描くもんがなくて、スケッチなんか何もできない、もちろん捕虜だからね。それで山羊の目を見てたら、こういう風に縦になっててね、それで初めてわかったんですよ、瞳がこうなって、夜になると丸くなるんですよ。猫と同じようになってるんだなあと思って、シベリアから3年ぶりに帰ってきて、ピカソの山羊の絵を見たらみんなこうなってるんですよね。「ああ、あんなすばらしい大家が、眼なんかどうでもいいやっていわずにね、自然を馬鹿にしないでね、きちっとリアリズムやってんですよ、どんなに変形したものでも。」
ああ、たいしたもんだなあ、って感心するんですよ。大家ってのは、ただの大家じゃないんだな。やっぱり努力して観察してるんだなっていうのがね。普通の人はわかんないですよね、そんなところはね。羊だな、山羊だなって思うぐらいで。 |
Q;彫刻で、音楽や文学に負けたくないと言っていますね。過去や現在、未来までも入れ込む、と。何となく言葉ではわかるんですが、もう少し具体的に聞かせてください。
A;例えば、王さんをデス・マスクとって、あの彫刻の横に並べたら……佐藤忠良ってのは芸術家っていいながらずいぶんひどいのを造ったなって思ったり、王さんの生の顔よりも何か、少し、王さんが出てる、なるほどと思っていただけたとすれば、動かない粘土に時間を入れ込めたと……とにかく型を取れば一番似ちゃうわけですよね、そのぱっと止まった瞬間は。人間の生きた顔でもできるわけですよ、寒天に顔をつけて石膏を流し込めば。こうやって走ってきて止まった瞬間、音楽や文学なら、その前後もできるわけだけれども。映画のひとコマ、ここで止まったらそれきりなわけでしょ? それと同じことなんですよ、型とったら。
それが、王貞治の顔、こういうように、本物よりもこんな風になってるけどもね、彼なりの時間性を入れたわけですよね……だから見てても飽きないですよね。こっちは日本の埴輪ですけどね。そこがなかなか難しいところですよね、動かないものに時間性をぶちこんでいかなけりゃならないんですから。絵は少しごまかしが利きますけれどもね。 |
Q;彫刻家の方のデッサンと、画家の方のデッサンとでは違うと思うんですが、どこがどう違うんでしょうか。
A;よく彫刻家のデッサンは、絵描きのデッサンよりもいいって、惚れ込んだ人はそういうことをいいますけどね。例えばこういう裸でも、向こうっかわの脚までこう、ひょっと描くことがあるわけですよ。向こうの脚はこうなってるだろうと考えて。彫刻家の場合はうまくいかないから、脚をあっち描いたりこっち描いたりするんですがね。それがかえって魅力になって、とりすましたりするよりも、その苦悩のあとが見えると、こういう苦しい思いをしてるんだよと告白してくれたほうが親しみを感じると同じで、絵では失敗して何回も描き直したりしたほうがね。ああ、心のうちを見せてくれてるんだなあ、と。
うまくいかないんですよ。うまくいったらいっぺんで描けちゃうのに、このロダンでさえこうして描き直してんですよ。それが粘土でやってるとなかなかそういかないんで、紙の上でまず一回自分との闘いを試してみるのが、私たちの素描の難しさですよね。
デッサンを見るとね、その作家がほとんどわかっちゃうんですよ。新聞でも本のカットでも、えらい有名な人が描いたのを見て、エッと思うようなのがね……ぼろが出ちゃうんですよ。我々いくらか専門にやってる人間から見るとね、単純化したようでいて単調になってるんですよ。
単純と単調とは違いますからね。さっきの能なんか、本当に目ざしたのは単純化ですよ。それを形だけ真似すると、単調になっちゃうんですよ。中身がない。単純化するためには、どれほど切ない思いをして、要らないものを捨てていって、そんなことをくり返していく中で一つの形ができていくんだろうと思うんですよ。人生でも、絵でもね。 |
Q;先生にとって、美学とはなんでしょうか?
A;いやあ、それはわかんないですね……もちろんお互いに批判はできますよ。「あの野郎、恰好のいいことばっかりいって、中身がねえじゃねえか」というようなことは、飲んでると出てくることはありますけどね。
知識がものをいってる……テレビを見てると「それだけのことしてるのか」と思う人はいますよね。我々だってみんな、そういうことはあると思う。私はできるだけ失敗談なんかをしゃべるようにしてますがね。聞いてる人は面白いですよ。偉い人だと思ってたのに、私たちと同じように失敗してるんだ、と思うはずですからね。 |