.jpg)
歴史の流れについていけなかった悲劇の王妃
![]()
1755年11月2日 オーストリアの女帝 マリア・テレジアの娘として生まれた。
オーストリアで過ごした幼少時代は自由気ままに暮らし、かの有名な音楽
家モーツァルトにプロポーズされたというエピソードも残っているくらいだ。
だが、1770年 14歳フランス王朝ブルボン家との同盟政策のため、
フランス皇太子と政略結婚させられた事から運命の輪は回り始めた。
結婚後 4年でルイ15世が逝去したため、18歳という若さで王妃の位に
ついた。一見 何の不満もないように思えた宮殿生活だが、堅苦しい宮廷
マナーに疲れたアントアネットは国民の税金を使い、誰もが驚くような
贅沢な生活を始めた。また、その浪費について 財務長官が相談に
来ると、国王である夫に言いつけその長官を罷免させてしまうなど、政治に
余計な口出しをするようになったことは事実だ。
その後、税金を湯水のように使ったため 国民から恨まれた。
そして、そこからアントアネットの運命が変わり 愛する皇太子の死、
フランス革命の勃発など不幸が訪れた。
フランス革命が勃発してからと言うもの、居城をベルサイユ宮殿からパリに
移されチュイルリー宮殿では、王の権利を取り戻そうと フェルゼンと
ともに画策した。
しかし、自分たちの立場が悪くなる一方と言うことに気づき、祖国
オーストリアに逃亡しようとするが捕まってしまう。
逮捕後は タンプル塔に幽閉されてしまうが、家族と水入らずの生活が
できたため、幸せな日々だったといわれている。
だが、そんな幸せの日々は 心の中では軽蔑していたが、自分をやさしく
愛してくれた夫ルイ16世の処刑や皇太子が国民議会の手に渡ってしまう
などということで壊されてしまい、良いことは一つもなかった。
1793年ついに 革命裁判にかけられ、誇り高く 自己弁明を
したのにもかかわらず、有罪という判決が下ってしまう。
処刑場まで連れて行かれるまでは 平民と同じ汚い荷車で連れて
行かれた。
平民たちに罵声を浴びさせられたが、かつて フランスで最も輝いて
いた女性という威厳を忘れずに背筋をぴんと正していたという。
刑場で処刑人の足を踏んでしまったアントアネットは、
「ごめんあそばせ わざとやったのではありませんの」
という言葉が自然に出たという。