表紙>>簡易版トップ>>目次>>『銀河鉄道の夜』本文トップ>>『銀河鉄道の夜』-旧版−六、銀河ステーション
四、ケンタウル祭
五、天気輪の柱
⇒六、銀河ステーション
七、北十字とプリオシン海岸
八、鳥を捕る人
九、ジョバンニの切符(前)
ジョバンニの切符 (中)
ジョバンニの切符(後)
六、銀河ステーション
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(さっきもちゃうど、あんなになった。)
ジョバンニが、かう呟くか呟かないうちに、愕いたことは、いままでぼんやり蕈のかたちをしてゐた、その青じろいひかりが、にはかにはっきりした三角標の形になって、しばらく螢のやうに、ぺかぺか消えたりともったりしてゐましたが、たうとうりんとうごかないやうになって、濃い銅青のそらの野原にたちました。いま新らしく灼いたばかりの青い銅の板のやうな、そらの野原に、まっすぐにすきと立ったのです。
(いくらなんでも、あんまりひどい。ひかりがあんなチョコレートででも組みあげたやうな三角標になるなんて。)
ジョバンニは思うはず誰へともなしにさう叫びました。
するとちょうど、それに返事をするやうに、どこか遠くの遠くのもやの中から、セロのやうなごうごるした声がきこえて来ました。
(ひかりといふものは、ひとるのエネルギーだよ。お菓子や三角標も、みんないろいろに組みあげられたエネルギーが、またいろいろに組みあげられてできてゐる。だから規則さへさうならば、ひかりがお菓子になることもあるのだ。たゞおまへは、いままでそんな規則のとこに居なかっただけだ。ここらはまるで約束がちがふからな。)
ジョバンニはわかったやうな、わからないやうな、をかしな気がして、だまってそこらを見てゐました。
すると今度は、前からでもうしろからでもどこからでもないふしぎなこえが、銀河ステーション、銀河ステーションときこえました。そしていよいよをかしいことは、その語が、少しもジョバンニの知らない語なのに、その意味はちゃんとわかるのでした。
(さうだ。やっぱりあれは、ほんたうの三角標だ。頂上には、白鳥の形を描いた測量旗だってひらひらしてゐる。)ジョバンニが、さう思ったときでした。いきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の螢烏賊の火を一ぺんに化石させて、そら中に沈めたといふ工合、またダイヤモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと獲れないふりをして、かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかへして、ばら撒いたといふ風に、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思はず何ぺんも眼を擦ってしまひました。実はその光は、広い一本の帯になって、ところどころ枝を出したり、二つに岐れたりしながら、空の野原を北から南へ、しらしらと流れるのでした。
(あの光る砂利の上には、気が流れてゐるやうだ。)
ジョバンニは、ちょっとさう思ひました。するとすぐ、あのセロのやうな声が答へたのです。
(水が流れてゐる?水かね、ほんたうに。)
ジョバンニは一生けん命伸び上がって、その天の川の水を、見きはめようとしましたが、どうしてもそれが、はっきりしませんでした。
(どうもぼくには水だかなんだかよくわからない。けれどもたしかにながれてゐる。そしてまるで風と区別されないやうにも見える。あんまりすきとほって、それに軽さうだから。)ジョバンニはひとりで呟きました。
すると、どこかずうっと遠くで、なにかが大へんよろこんで、手を拍ったといふやうな気がしました。
見ると、いまはもう、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとほって、ときどき眼の加減が、ちらちら紫いろの細かな波をたてたり、虹のやうにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野宿にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、うつくしく立ってゐた青白く少しかすんで、或いは三角形、厚い葉四辺形、あるいは電や鎖の形、さまざまにならんで、野原一杯に光ってゐるのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振りました。するとほんたうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかゞやく三角標も、てんでに域をつくやうに、ちらちらゆれたり顫へたりしました。
「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た。」ジョバンニは呟きました。「けれども僕は、ずうっと前から、ここでねむってゐたのではなかったらうか。ぼくは決して、こんな野原を歩いて来たのではない。途中のことを考へ出さうとしても、なんにもないんだから。」
ところが、ふと気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗ってゐる小さな列車が列車が走り続けてゐたのでした。ほんたうにジョバンニは、夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈のならんだ車室に、窓から外を見ながら座ってゐたのです。車室の中には、青い天鷲絨を張った腰掛けが、まるでがら明きで、ほんの六七人の、アラビヤ風のゆるい着物を着た人たちが、眼鏡を治したり、何か本を読んだりしてゐるだけ、向ふの鼠いろのワニスを塗った壁には、真鍮の大きなぼたんが二つ光ってゐるのでした。
ところが、ジョバンニは眼を自分の近くに戻して、ふとじぶんのすぐ前の席に、ぬれたやうにまっ黒な上着を着た、せいの高い子供が、窓から頭を出して外をみてゐるのに気が付きました。そしてそのこどもの肩のあたりが、どうも見たことのあるやうな気がして、さう思ふと、もうどうしても誰だかわかりたくて、たまらなくなりました。いきなりこっちも窓から顔をださうとしたとき、俄かにその子供があまたを引っ込めて、こっちを見ました。
それは級長のカムパネルラだったのです、
(あゝ、さうだ。カムパネルラだ。ぼくはカムパネルラといっしょに旅をしてゐたのだ。)ジョバンニが思った時、カムパネルラが云ひました。
「ザネリはね、ずゐぶん走ったけれども、乗り遅れたよ。銀河ステーションの時計はよほど進んでゐるねえ。」
ジョバンニは、(さうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出掛けたのだ。)とおもひながら、
「次の停車場で下りて、ザネリを来るのを待ってゐようか。」と云ひました。
「ザネリ、もう帰ったよ。お父さんが迎ひにきたんだ。」
カムパネルラは、なぜかさう云ひながら、少し顔いろが青ざめて、どこか苦しいとふふうでした。するとジョバンニも、なんだかどこかに、何か忘れたか済まないことがしてあるといふやうな、をかしな気持ちがしてだまってしまひました。
ところがカムパネルラは、窓から外を覗きながら、もうすっかり元気が直って、勢よく云ひました。
「あゝしまった。ぼく、水筒を忘れてきた。スケッチ帳も忘れてきた。けれど構はない。もうぢき白鳥の停車場だから。ぼく、白鳥を見るなら、ほんたうにすきだ。川の遠くを飛んでゐたって、ぼくきっと見える。」そしてカムパネルラは、円い板のやうになった地図を、しきりにぐるぐるまはして見てゐました。まったくその中に、白くあらはされた天の川の左の岸に沿って一条の鉄道線の上に、一一の停車場や三角標、泉水や森が、青や橙や緑や、うつくしい光でちりばめられてありました。ジョバンニはなんだかその地図をどこからで見たやうにおもひました。
「この地図はどこで買ったの。黒曜石でできてるねえ。」
ジョバンニが云ひました。
「銀河ステーションで、もらったんだ。君もらはなかったの。」
ジョバンニは、白鳥と書いてある停車場のしるしの、すぐ北を指しました。
「さうだ。おや、あの河原は月夜だろうか。」
そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすゝきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆれてうごいていて、波を立ててゐるのでした。
「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジョバンニは云ひながら、まるではね上りたいくらゐ愉快になって、足をことこと鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛を吹きました。
「ぼくたち、どこまで行くんだったらう。」ジョバンニはふと天の川のこっちに、大きな一つのからな小屋が建ち、そこから滑車や網がたくさんぶらさがってゐるのを見ながら、カムパネルラにききました。
「どこまでも行くんだらう。」カムパネルラはぼんやり答へました。
「この汽車石炭たいてゐないねえ。」ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云ひました。
「石炭たいてゐない?電気だらう。」
そのとき、あのなつかしいセロのしづかな声がしました。
「ここの汽車は、スティームや電気でうごいてゐない。ただうごくやうにきまってゐるからうごいてゐるのだ。」
「あの声、ぼくなんべんもどこかできいた。」
「ぼくだって、林の中や川で、何べんも聞いた。」
ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすゝきの風にひるがへる中を、天の川の水や、三角点の青白い燐光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。
向ふの席で、灰いろのひだの、長く垂れたきものを着たひとが、ちょっと立ちあがって、そのえりを直しただけ、ほんたうにそこらはしづかなのでした。
「あゝ、りんだうの花が咲いてゐる。もうすっかり秋だねえ。」カムパネルラが、窓の外を指差して云いました。
線路のへりになったみじかい芝草の中に、月長石でも刻まれたやうな、素晴らしい紫のりんだうの花が咲いてゐました。
「ぼく、飛び下りて、あいつをとって、また飛び乗ってみせようか。」ジョバンニは胸を躍らせて云ひました。
「もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから。」
カムパネルラが、さう云ってしまふかしまはないうち、次のりんだうの花が、いっぱいに光って過ぎて行きました。
と思ったら、もう次から次から、たくさんのきいろな底をもったりんだうの花のコップが、湧くやうに、雨のやうに、眼の前を通り、三角標を通り、三角標の列は、けむるやうに燃えるやうに、いよいよ光って立ったのです。