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『銀河鉄道の夜』 -旧版-

四、ケンタウル祭
五、天気輪の柱
六、銀河ステーション
七、北十字とプリオシン海岸
八、鳥を捕る人
九、ジョバンニの切符(前)
   ジョバンニの切符 (中) 
   ジョバンニの切符(後)

九、ジョバンニの切符(前)

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「もうこゝらは白鳥区のおしまひです。ごらんなさい。あれが名高いアルビレオの観測所です。」
 窓の外の、まるで花火でいっぱいのやうな、あまの川のまん中に、黒い大きな建物が四棟ばかり立って、その一つの平屋根の上に、眼もさめるやうな、青宝玉と黄玉の大きな二つのすきとほった球が、輪になってしづかにくるくるとまはってゐました。黄いろのがだんだん向ふへまはって行って、青い小さいのがこっちへ進んで来、間もなく二つのはじは、重なり合って、きれいな緑いろの両面凸レンズのかたちをつくり、それもだんだん、まん中がふくらみ出して、たうとう青いのは、すっかりトパースの正面に来ましたので、緑の中心と黄いろな明るい環とができました。それがまただんだん横へ外れて、前のレンズの形を逆に繰り返し、たうとうすっとはなれて、サファイアは向ふへめぐり、黄いろのはこっちへ進み、また丁度さっきのやうな風になりました。銀河の、かたちもなく音もない水にかこまれて、ほんとうにその黒い測候所が、睡ってゐるように、しずかによこたはったのです。
「あれは、水の速さをはかる器械です。水も……。」鳥捕りが云ひかけたとき、
「切符を拝見いたします。」三人の席の横に、赤い帽子をかぶったせいの高い車掌が、いつかまっすぐに立ってゐて云いました。鳥捕りは、だまってかくしから、小さな紙きれを出しました。車掌はちょっと見て、すぐ眼をそらして、(あなた方のは?)というように、指をうごかしながら、手をジョバンニたちの方へ出しました。
「さあ、」ジョバンニは困って、もぢもぢしていましたら、カムパネルラは、わけもないといふ風で、小さな鼠いろの切符を出しました。ジョバンニは、すっかりあわててしまって、もしか上着のポケットにでも、入ってゐたかとおもひながら、手を入れて見ましたら、何か大きな畳んだ紙きれにあたりました。こんなもの入ってゐたらうかと思って、急いで出してみましたら、それは四つに折ったはがきぐらゐの大きさの緑いろの紙でした。車掌が手を出してゐるもんですから何でも構はない、やっちまへと思って渡しましたら、車掌はまっすぐに立ち直って叮寧にそれを開いて見てゐました。そして読みながら上着のぼたんやなんかしきりに直したりしてゐましたし燈台看守も下からそれを熱心にのぞいてゐましたから、ジョバンニはたしかにあれは証明書か何かだったと考へて少し胸が熱くなるやうな気がしました。
「これは三次空間の方からお持ちになったのですか。」車掌がたづねました。
「何だかわかりません。」もう大丈夫だと安心しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつ笑ひました。
「よろしうございます。南十字へ着きますのは、次の第三時ころになります。」車掌は紙をジョバンニに渡して向ふへ行きました。
 カムパネルラは、その紙切れが何だったか待ち兼ねたといふやうい急いでのぞきこみました。ジョバンニも全く早く見たかったのです。ところがそれはいちめん黒い唐草のやうな模様の中に、をかしな十ばかりの字を印刷さたものでだまって見てゐると何だかその中に吸ひ込まれてしまふやうな気がするのでした。すると鳥捕りが横からちらっとそれを見てあわてたやうに云ひました。
「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんたうの天上へさへ行ける切符だ。天上どこぢゃない、どこでも勝手にあける通行券ですこいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまでも行ける筈でさあ、あなた方大したもんですね。」
「何だかわかりません。」ジョバンニが赤くなって答へながらそれを又畳んでかくしに入れました。そしてきまりが悪いのでカムパネルラと二人、また窓の外をながめてゐましたが、その鳥捕りの時々大したもんだといふやうにちらちらこっちを見てゐるのがぼんやりわかりました。
「もうぢき鷲の停車場だよ。」カムパネルラが向ふ岸の、三つならんだ小さな青じろい三角標と地図とを見比べて云ひました。
 ジョバンニはなんだかわけもわからずににはかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺を塚まべてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたやうに横目で見てあわててほめだしたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい。もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。ほんたうにあなたのほしいものは一体何ですか、と訊かうとして、それではあんまり出し抜けだから、どうしようかと考へて振り返って見ましたら、そこにはもうあの鳥捕りが居ませんでした。網棚の上には白い荷物も見えなかったのです。また窓の外で足をふんばってそらを見上げて鷺を捕る支度をしてゐるのかと思って、急いでそっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂子と白いすゝすきの波ばかり、あの鳥捕りの広いせなかも尖った帽子も見えませんでした。
「あの人どこへ行ったらう。」カムパネルラもぼんやりさう云ってゐました。
「どこへ行ったらう。一体どこでまたあふのだらう。僕はどうしても少しあの人に物を言はなかったらう。」
「あゝ、僕もさう思ってゐるよ。」
「僕はあの人が邪魔なやうな気がしたんだ。だから僕は大へんつらい。」ジョバンニはこんな変れこな気もちは、ほんたうにはじめてだし、こんなこと今まで云ったこともないと思ひました。
「何だか苹果の匂がする。僕いま苹果のこと考へたためだらうか。」カムパネルラが不思議さうにあたりを見まはしました。
「ほんたうに苹果の匂だよ。それから野茨の匂もする。」ジョバンニもそこらを見ましたがやっぱりそれは窓からでも入って来るらしいのでした。今秋だから野茨の花の匂のする筈はないとジョバンニは思ひました。
 そしたら俄かにそこに、つやつやした黒い髪の六つばかりの男の子が赤いジャケツをぼたんもかけずひどくびっくりしたやうな顔をしてがたがたふるへてはだしで立ってゐました。隣りには黒い洋服をきちんと着たせいの高い青年が一ぱい風に吹かれてゐるけやきの木のやうな姿勢で、男の子の手をしっかりひいて立ってゐました。
「あら、こゝどこでせう。まあ、きれいだわ。」青年のうしろにもひとり十二ばかりの眼の茶いろな可愛らしい女の子が黒い外套を着て青年の腕にすがって不思議さうに窓の外を見てゐるのでした。
「ああ、こゝはカシャイヤだ。いや、コンネクテカット州だ。いや、ああ、ぼくたちはそらへ来たのだ。わたしたちは天へ行くのです。ごらんなさい。あのしるしは天上のしるしです。もうなんにもこはいことありません。わたくしたちは神さまに召されてゐるのです。」黒服の青年はよろこびにかゞやいてその女の子に云ひました。けれでもなぜかまた額に深く皺を刻んで、それに大へんつかれてゐるらしく、無理に笑ひながら男の子をジョバンニのとなりに座らせました。
 それから女の子にやさしくカムパネルラのとなりの席を指しました。女の子はすなほにそこへ座って、きちんと両手を組み合わせました。
「ぼくおねえさんのとこへ行くんだよう。」腰掛けたばかりの男の子は顔を変にして燈台看守の向ふの席に座ったばかりの青年に云ひました。青年は何とも云へず悲しさうな顔をして、じっとその子の、ちぢれてぬれた頭を見ました。女の子は、いきなり両手を顔にあててしくしく泣いてしまひました。
「お父さんやきくよねえさんはまだいろいろお仕事があるのです。けれどももうすぐあとからいらっしゃいます。それよりも、おっかさんはどんなに永く待っていらっしゃったでせう。わたしの大事なタダシはいまどんな歌をうたってゐるだらう、雪の振る朝にみんなと手をつないでぐるぐるにはとこのやぶをまはってあそんでゐるだらうかと考へたりほんたうに待って心配していらっしゃるんですから、早く行っておっかさんにお目にかゝりませうね。」
「うん、だけど僕、船にのらなけぁよかったなあ。」
「えゝ、けれど、ごらんなさい、そら、どうです、あの立派な川、ね、あすこはあの夏中、ツヰンクル、ツヰンクル、リトル、スター、をうたってやすむとき、いつも窓からぼんやり白く見えてゐたでせう。あすこですよ。ね、きれいでせう、あんなに光ったゐます。」
 泣いてゐた姉もハンケチで眼をふいて外を見ました。青年は教へるやうにそっと姉弟にまた云ひました。
「私たちはもう何にも悲しいことないのです。わたしたちはこんないゝとこを旅して、ぢき神さまのとこへ行きます。そこならもうほんたうに明るくて匂がよくて立派な人たちでいっぱいです。そしてわたしたちの代りにボートへ乗れた人たちは、きっとみんな助けられて、心配して待ってゐるめいめいのお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。さあ、もうぢきですから元気を出しておもしろくうたって行きませう。」青年は男の子のぬれたやうな黒い髪をなで、みんなを慰めながら、自分もだんだん顔いろがかゞやいて来ました。
「あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのですか。」さっきの燈台看守がやっと少しわかったやうに青年にたづねました。青年はかすかにわらひました。
「いえ、氷山にぶつかって船が沈みましてね、わたしたちはこちらのお父さんが急な用で二ヶ月前一足さきに本国へお帰りになったのであとから発ったのです。私は大学へはひってゐて、家庭教師にやとはれてゐたのです。ところがちゃうど十二日目、今日か昨日のあたりです、船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです。ところがボートは左舷の方半分はもうだめになってゐましたから、とてもみんなは乗り切らないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈って呉れました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても押しのける勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思ひましたから前にゐる子供らを押しのけようとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまゝ神のお前にみんなで行く方がほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思ひました。けれどもどうして見てゐるとそれができないのでした。子どもらばかりボートの中へはなしてやってお母さんが狂気のやうにキスを送りお父さんがかなしいのをじっとこらへてまっすぐに立ってゐるなどとてももう腸もちぎれるやうでした。そのうち船はもうずんずん沈みますから、私はもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて、浮べるだけは浮ぼうとかたまって船の沈むのを待ってゐました。誰が投げたかライフブイが一つ飛んで来ましたけれども滑ってずうっと向ふへ行ってしまひました。私は一生けん命で甲板の格子になったとこをはなして、三人それにしっかりとりつきました。どこからともなく〔約二文字分空白〕番の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれをうたひました。そのとき俄かに大きな音がして私たちは水に落ちもう渦に入ったと思ひながらしっかりこの人たちをだいてそれからぼうっとしたと思ったらもうこゝへ来てゐたのです。この方たちのお母さんは一昨年没くなられました。えゝボートはきっと助かったにちがひありません、何せよほど熟練な水夫たちが漕いですばやく船からはなれてゐましたから。」

 そこらから小さないのりの声が聞えジョバンニもカムパネルラもいままで忘れてゐたいろいろのことをぼんやり思ひ出して眼が熱くなりました。



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