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『銀河鉄道の夜』 -旧版-

四、ケンタウル祭
五、天気輪の柱
六、銀河ステーション
七、北十字とプリオシン海岸
八、鳥を捕る人
九、ジョバンニの切符(前)
   ジョバンニの切符 (中) 
   ジョバンニの切符(後)

 四、ケンタウル祭

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(そら、ぼくの影ぼふしは、だんだんみじかくなって、ぼくへ追ひついてくる。ぢきにすっかりちぢまっちまふぞ。)
 ジョバンニは、口笛を吹いてゐるやうなさびしい口付きで、うしろをふりかへって、こんなことを考へながら、檜の真っ黒にならんだ町の坂を下りて来たのでした。
 坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光って立ってゐました。はんたうにジョバンニが、どんどん電燈の方へ下りて行きますと、いままでばけもののやうに、長くぼんやり、うしろへ引いてゐらジョバンニの影ぼふしは、だんだん濃く黒くはっきりなって、足をあげたり手を振ったり、ジョバンニの横の法へまはって来るのでした。
(ぼくはまるで軽便鉄道の機関車だ。ここは勾配だからこんなに早い。ぼくはいまその電燈を通り越す。しゅっしゅっ。そら、こんどはぼくの影法師はコムパスだ。あんなにくるっとまはって、前の方へ来た。)
とジョバンニが思ひながら、大股にその街燈の下を通り過ぎたとき、いきなり一人の顔の赤い、新しいえりの尖ったシャツを着た小さな子が、電燈の向ふ側の暗い小路から出てきて、ひらっとジョバンニとすれちがひました。
「ザネリ、どこへ行ったの。」ジョバンニがまださう云ってしまはないうちに、
「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ。」その子が投げつけるやうにうしろから叫びました。
 ジョバンニは、ばっと胸がつめたくなり、そこら中きぃんと鳴るやうに思ひました。
 なぜならジョバンニのお父さんは、そんならっこや海豹をとる、それも密猟船に乗ってゐて、それになにかひとを怪我させたために、遠くのさびしい海峡の町の監獄に入ってゐるといふのでした。ですから今夜だって、みんなが町の広場にあつまって、一緒に星めぐりの歌を歌ったり、川へ青い烏瓜のあかしを流したりする、たのしいケンタウル祭の伴なのに、ジョバンニはぼろぼろのふだん着のままで、病気のおっかさんの牛乳の配られて来ないのをとりに、下の町はづれまで行くのでした。
(ザネリは、どうしてもぼくがなんにもしないのに、あんなことを云ふののだらう。ぼくのお父さんは、悪くて監獄にはひってゐるのではない。わるいことなど、お父さんがする筈ないんだ。去年の夏、帰ってきたときだって、ちょっと見たときはびっくりしたけれども、ほんたうはここにわらって、それにあの荷物を解いたときならどうだ、鮭の皮でこさへた大きな靴だの、となかいの角だの、どんなにぼくは、よろこんではねあがって叫んだかしれない。ぼくは学校へ持って行ってみんなに見せた。先生までめづらしいといって見たんだ。いまだってちゃんと標本室にある。それにザネリやなんかあんまりだ。けれどもあんなことをいふのはばかだからだ。)
 ジョバンニは、せはしくいろいろのことを考へながら、さまざまな灯や木の枝で、きれいに飾られた町を通って行きました。時計屋の店には明るくネオン燈がついて、一秒ごとに石でこさへたふくろふの赤い眼が、くるっくるっとうごいたり、、眩ゆいプラチナや黄金の鎖だの、いろいろな宝石のはひった指環だのが、海のやうな色をした厚いガラスの盤に載ってゆっくり循ったり、また向ふ側から、銅のの人馬がゆっくりこっちへまはって来たりするのでした。そのまん中に円い黒い正座早見が青いアスパラガスの葉で飾ってありました。
(あゝ、もしぼくがいまのやうに、朝暗いうちから二時間もしんぶんを折ってまはしにあるいたり、学校から帰ってからまで、活版処へ行って活字をひろったりしないでいいやうなら、学校でも前のやうにもっとおもしろくて、人馬だって球投げだって、誰にも負けないで、一生けん命やれたんだ。それがもういまは、誰も僕とあそばない。ぼくはたったひとりになってしまった。)
 ジョバンニはきゅうくつな上着の肩を気にしながら、それでも胸を張って大きく手を振って、町を通って生きました。そのケンタウル祭の夜の町のきれいなことは、空気は澄み切って、まるで水のやうに通りや店の中を流れましたし、街燈はみなまっ青なもみや楢の枝で包まれ、電気会社の前の六本のプラタヌスの木などは、中に沢山の豆電燈がついて、ほんたうにそこらは人魚の都のやうに見えるのでした。子どもらは、みんな新らしい折のついた着物を着て、星めぐりの口笛を吹いたり
「ケンタウルス、露をふらせ。」と叫んで走ったり、青いマグネシヤの花火を燃やしたりして、たのしさうに遊んでゐるのでした。けれどもジョバンニは、いつかまた深く首を垂れて、そこらのにぎやかさとはまるでちがったことを考へながら、町はづれへ急ぐのでした。
(お母さんは、ほんたうにきのどくだ。毎日あんまり心配して、それでも無理に外へ出て、キャペヂのクサをとったり、燕麦を刈ったりはたらいたのだ。あの晩、おっかさんは、あんまり動悸がするからジョバンニ、起きてお湯をわかしてお呉れと云ってぼくをおこした。おっかさんが、ぼんやり辛さうに息をして、唇のいろまで変ってゐたんだ。ぼくはたったひとり、まるで馬鹿のやうに、火を吹きつけてお湯をわかした。手をあたためてあげたり、胸に湿布をしたり、頭を冷やしたり、いろいろしても、おっかさんはたゞだるさうに、もういゝよといふきりだった。ぼくはどんなに、つらかったかわからない。)
 ジョバンニは、いつか待ちはづれのポプラの気が幾本も幾本も、高く星ぞらに浮かんでゐるところに来てゐました。その牛乳屋の黒い門を入り、牛の匂のするうすくらい台所の前に立って、ジョバンニは帽子をぬいで「今晩は、」と云ひましたら、家の中はしぃんとして誰も居たやうではありませんでした。
「今晩は、ごめんなさい。」ジョバンニはまっすぐに立ってまた叫びました。するとしばらくたってから、年老った下女が、横の方からバケルをさげて出て来て云ひました。
「今晩だめですよ。誰も居ませんよ。」

「あの、今日、牛乳が僕んとこへ来なかったので、貰ひにあがったんです。」ジョバンニが一生けん命勢よく云ひました。

「ちゝ、今日はもうありませんよ。あしたにして下さい。」
下女は着物のふちで赤い眼の下のとこを擦りながら、しげしげジョバンニを見て云ひました。
「おっかさんが病気なんですがないんでせうか。」
「ありませんよ。お気の毒ですけれど。」下女はもう行ってしまひさうでした。
「さうですか、ではありがたう。」ジョバンニは、お辞儀をして台所から出ましたけれども、なぜか泪がいっぱいに湧きました。
(今日、銀貨が一枚さえあったら、どこからでもコンデンスミルクを買って帰るんだけれど。ああ、ぼくはどんなにお金がほしいのだらう。青い苹果だってもうできてゐるんだ。カムパネルラなんか、ほんたうにいいなあ。今日だって、銀貨を二枚も、運動場で弾いたりしてゐた。
  ぼくはどうして、カムパネルラのやうに生れなかったらう。カムパネルラはえらい。せいだって高いし、いつだってわらってゐる。一年生のころは、あんまりできなかったけれども、いまはもう一番の級長で、誰だって追ひ付きやしない。算術だって、むづかしい歩合算でも、ちょっと頭を曲げればすぐできる。絵なんかあんなにうまい。水車を写生したのなどは、おとなだってあれくらゐできやしない。ぼくがカムパネルラと友だちだったら、どんなにいゝだらう。カムパネルラは、決してひとの悪口などを云はない。そして誰だって、カムパネルラをわるくおもってゐない。けれども、あゝ、おっかさんは、いまうちでぼくを待ってゐる。ぼくは早く帰って、牛乳はないけれども、おっかさんの額にキスをして、あの時計屋のふくらふの飾りのことをお話しよう。)
  ジョバンニは、せはしくこんなことを考へながら、さっき来た町かどを、まがらうとしましたら、向ふの雑貨店の前で、黒い影やぼんやり白いシャツが入り乱れて、六七人の生徒らが、口笛を吹いたり笑ったりして、めいめい烏瓜の燈火を持ってやって来るのを見ました。その笑ひ声も口笛も、みんな聞きおぼえのあるものでした。ジョバンニの同級の子供らだったのです。ジョバンニは思はずどきっとして戻らうとしましたら、思ひ直して、一そう勢よくそっちへ歩いて行きました。
「川へ行くの。」ジョバンニは云はうとして、少しのどがつまったやうに思ったとき、
「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。」さっきのザネリがまた叫びました。
「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。」すぐみんなが、続いて叫びました。ジョバンニはまっ赤になって、もう歩いてゐるかもわからず、急いで行きすぎようとしましたら、そのなかにカムパネルラが居たのです。カムパネルラは気の毒さうに、だまって少しわらって、怒らないだらうかといふやうにジョバンニの方を見てゐました。
  ジョバンニは、遁げるやうにその眼を避け、そしてカムパネルラのせいの高いかたちが過ぎて行って間もなく、みんなはてんでに口笛を吹きました。町かどを曲るとき、ふりかえって見ましたら、ザネリがやはりふりかへって見てゐました。そしてカムパネルラもまた、高く口笛を吹いて行ってしまったのでした。ジョバンニは、なんとも云へずさびしくなって、いきなり走り出しました。すると耳に手をあてて、わああと云ひながら片足でぴょんぴょん跳ねてゐた小さな子供らは、ジョバンニが面白くてかけるのだと思って、わあいと叫びました。どんどんジョバンニは走りました。
  けれどもジョバンニは、まっすぐに坂をのぼって、あの檜の中のおっかさんの家へは帰らないで、ちゃうどその北の方の、町はづれへ走って行ったのです。そこには、河原のぼうっと白く見える、小さな川があって、細いテツの欄干のついた橋がかかってゐました。
(ぼくはどこへもあそびに行くところがない。ぼくはみんなから、まるで狐のやうに見えるんだ。)
  ジョバンニは橋の上でとまって、ちょっとの間、せはしい息できれぎれに口笛を吹きながら泣き出したいのをごまかして立ってゐましたが、俄かにまたちからいっぱい走りだしました。




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