森永ヒ素ミルク事件

森永ヒ素ミルク事件は1955年に発生した中毒事件です。当時、森永乳業が製造していた粉ミルクの中にヒ素が混入していたことから、それを飲用した乳幼児が死亡、中毒症状に至りました。1957年3月時点で患者数は約12300人、死亡者は130人にも上り、世界でも最大級の食品公害と称されています。

森永乳業は凝固を防ぎ溶解しやすくする安定剤として第二リン酸ソーダという物質を粉ミルクに添加していました。この第二リン酸ソーダは別名リン酸水素二ナトリウムと呼ばれており、この物質自体に害はありません。現在でも、ハムやかまぼこなどに結合剤として使用されています。あくまでも、第二リン酸ソーダに危険な物質であるヒ素が混入してしまったことによって起きてしまった事件なのです。

なぜヒ素の混入したものを使用してしまったのでしょうか。

ことの発端は1953年まで遡ります。リン酸ソーダを製造していた新日本軽金属の清水工場で輸送管にヒ素やリン酸を大量に含む物質が発見されました。県の衛生部は厚生省に確認を入れましたが、厚生省の回答は「毒劇物取締法上のヒ素製剤には該当しない」とのこと。これにより出荷の許可が下りたため、ヒ素入りリン酸ソーダが世に出回ってしまったのです。さて、こうして出回ったリン酸ソーダはいくつかの企業を経由して松野製薬にわたります。松野製薬はこれを脱色精製。第二リン酸ソーダとして森永の元に渡るわけです。入荷した森永徳島工場は安定剤として使用するはずの第二リン酸ソーダを安全検査なしで使用してしまいます。結果、ヒ素という危険物質が入っているとはつゆ知らず、粉ミルクを購入した保護者は子供にヒ素を与えることとなってしまい、悲劇が起こったのです。



事件発生当時は原因不明でしたが、1955年に粉ミルクが原因で発生したと発覚、報告されました。しかし当時は日本が高度経済成長期の真っただ中。政府も殖産興業を掲げ、企業側を味方したことで、被害者の訴えは届くことなく、力業で抑え込まれてしまったのです。これにより被害者側は大きな不満を残したまま事件は終わりを迎えました。

しかしその14年後、被害者たちに後遺症がある可能性が発覚。被害者の親は再び運動を起こします。事件が知られ始めると民間で森永に対する不信感が募りました。1960年代には森永商品を買わない森永不買運動が勃発。森永ヒ素ミルク事件の被害を特に受けた西日本では多くの店が売り上げの見込みのなさを理由に森永製品の取り扱いをしないまでになっており、このような事態は実に約15年もの間続くこととなったのです。この運動は日本中に広まり、日本最大のボイコット運動となりました。

また、1970年に森永側が病気の原因が自社の製品だと認めるものの、第二リン酸ソーダの仕入れ先を信頼していたため、自社に非はないと主張したことで事態は悪化。

1973年12月、被害者の親を中心に構成された森永ミルク中毒の子どもを守る会(現、森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会)と国と森永に被害者を恒久的に救済するとした同意書の締結をもって事件は一応の終結を迎えました。これによりひかり協会(現、公益財団法人ひかり協会)が1974年に設立。現在も被害者への支援や今後への協議を行っています。

しかしながら現在でも多くの被害者が後遺症を患っており、知的障害や精神疾患など様々な症状に悩まされています。被害者の親も自分が与えたミルクが原因となり子どもの未来を狂わせたことに自責の念を感じ、精神的ダメージを負ったケースも多くありました。

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