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各章の考察

■九章

項目(クリックするとその考察を見ることができます)
 
 ■ジョバンニの切符
 ■鳥捕りはどこへ消えたのか
 ■青年、かおる子、タダシについて

ジョバンニの切符

 車掌が切符を見に来た時に、ジョバンニの傍に居たのは鳥捕りとカムパネルラの2人だった。銀河鉄道に乗っている乗客は、全員鉄道の切符を持っている。しかし、ジョバンニの切符だけは毛色の違う物であった。9章の題名が「ジョバンニの切符」であることからもわかるように、緑の切符には何かしらの深い意味が込められている事に間違い無いだろう。賢治は緑の切符をジョバンニに持たせることでで何を表そうとしたのだろうか。

 鳥捕りが持っていた切符→小さな切符(鼠いろのものだと思われる)
 カムパネルラが持っていた切符→小さな鼠いろの切符
 ジョバンニが持っていた切符→四つに折ったはがきぐらいの大きさの緑いろの紙


 ジョバンニは、自分が知らないうちに上着のポケットに入っていたこの切符を車掌に差し出す。車掌は丁寧にそれを見て、「これは三次空間の方からお持ちになったのですか。」と尋ねた。その切符は、いちめん黒い唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したものであった。また、後に切符を見た鳥捕りは、「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈でさあ、あなた方大したもんですね。」と言っている。この車掌と鳥捕りの態度から、ジョバンニの切符は滅多に無く、珍しいものだと解る。


 ここで、一つの疑問が生じる。なぜジョバンニの切符だけ、珍しい緑の切符だったのか。自らの命の代わりに友を助けたカムパネルラが持っていたのならまだ解るが、気が付いたら銀河鉄道の中にいただけのジョバンニが持っていたのは不可解である。まず、ヒントを第三次稿の中から探してみよう。第四次稿では削除されてしまった部分に、銀河鉄道から地上に戻った時にジョバンニが緑いろの切符を握りしめて立っているという場面がある。それには、第四次稿では出てこないブルカニロ博士という人物の、

「さあ、切符をしっかり持っておいで、お前はもう夢の鉄道の中でなしに本当の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐ歩いて行かなければいけない。天の川の中でたった一つのほんたうのその切符を決しておまへはなくしてはいけない。」

という台詞や、

「おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。−中略−みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう。けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる。」

という台詞がある。これらは、緑いろの切符をジョバンニが心の拠り所とし、強く生きていけ、というブルカニロ博士からのメッセージだ。緑色の切符はブルカニロ博士から貰ったものだというストーリー展開となり、"ほんとうの幸"を追求する孤独*1なジョバンニを勇気付けるものである。また、この切符の描写に「天の川の中でたった一つのほんたうのその切符」というものがある。

 だが、第四次稿になって、ブルカニロ博士の部分は賢治自身の手によって削除されてしまった。(cf.第三次稿と第四次稿の違い)緑の切符を持つジョバンニと他の二人の違い、緑の切符を発見した後のジョバンニの変化を第四次稿を通してみてみよう。


 "ジョバンニはなんだかわけもわからずににわかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまえてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたように横目で見てあわててほめだしたり、そんなことを一一考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙っていられなくなりました。"


 まず、ジョバンニは銀河鉄道に乗っている人物の中で唯一現実世界に戻ることが出来ている。また、他の二人は銀河鉄道に乗ることになった経緯を理解しているにもかかわらず、ジョバンニはまったく無意識のうちに銀河鉄道に乗ることになった。
 そして、ジョバンニは最後にほんとうのさいわいを探しに行こうと決心する。しかし、カムパネルラは天上に行き、鳥捕りは途中で姿を消していた。
 ジョバンニは、8章では鳥捕りをばかにしていた。しかし、緑いろの切符を発見し手にした後、鳥捕りが気の毒でたまらなくなる。ここにはブルカニロ博士の言葉のような明確な記述は無いが、この切符は、賢治の理想"ほんとうの幸"という考え方の象徴であり、ジョバンニが切符を持っていたのは、ほんとうのさいわいを実現しようと決心するからなのではないのだろうか。


鳥捕りはどこへ消えたのか

 鳥捕りは、ジョバンニが"ほんとうの幸"について考え、鳥捕りに同情した時に突然姿を消す。鳥捕りがいなくなった後、カムパネルラとジョバンニはそれまでのつれない態度を後悔し、つらく思う。


 「あの人どこへ行ったろう。」カムパネルラもぼんやりそう云っていました。
 「どこへ行ったろう。一体どこでまたあうのだろう。僕はどうしても少しあの人に物を言わなかったろう。」
 「ああ、僕もそう思っているよ。」
 「僕はあの人が邪魔なような気がしたんだ。だから僕は大へんつらい。」ジョバンニはこんな変てこな気もちは、ほんとうにはじめてだし、こんなこと今まで云ったこともないと思いました。


 鳥捕りはいったい何故消え、何処へ行ったのか。鳥捕りは、突然消えたという点ではカムパネルラと共通しているが、次の鷲の停車場で新しく天上を目指す乗員が乗ったことから天上に行ったのではないと解る。鳥捕りは、白鳥の停車場を過ぎた辺りで現れ、鷲の停車場に着く前に居なくなった。8章のカムパネルラと鳥捕りの会話で、
 「わっしはすぐそこで降ります。わっしは、鳥をつかまえる商売でね。」
 「何鳥ですか。」
 「鶴や雁です。さぎも白鳥もです。」


 という会話があるが、鳥捕りは鷲の停車場では降りなかった。鷺の停車場を過ぎると、もう次の駅は天上である。鳥捕りは理想をあきらめた者であるがため、天上へは行けず、また白鳥区から出ることが出来ないのではないだろうか。さらに物語の中で鳥捕りは、ジョバンニの心の中に"ほんとうの幸"についての考えを呼び起こす役割を担っていた。これは、賢治が意図的に、ほんとうの幸という理想を目指すジョバンニと、理想をあきらめた鳥捕りの対比を書くためではないか。そして、 "ジョバンニはなんだかわけもわからずににわかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまえてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたように横目で見てあわててほめだしたり、そんなことを一一考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙っていられなくなりました。"というように、ほんとうの幸を求める心をジョバンニが持った時、鳥捕りは役割を終えたために突然姿を消す展開になったのではないだろうか。よって鳥捕りは、ジョバンニたちの前から消えた後も、白鳥の停車場から鷲の停車場の間で鳥を捕り続けているという可能性が高い。


青年、かおる子、タダシについて

 この3人は鳥捕りと入れ替わるように、鷲の停車場で突然現れた。かおる子とタダシは姉弟であり、青年はその家庭教師である。かおる子とタダシは他にもきくよという姉と父がいる。かおる子と青年は自分が銀河鉄道の乗っている理由(天上に向かうということ)を理解しているが、タダシは理解していない。
 彼らの言う"氷山にぶつかって沈んだ船"とは、タイタニック号がモチーフとなっている。ちなみに、タイタニック号の沈没は1912年4月、賢治が16歳だった時に起こり、東京朝日新聞で伝えられた。男の子の"赤いジャケツのぼたんもかけずひどくびっくりしたような顔をしてがたがたふるえてはだしで立っていました"、"ちぢれてぬれた頭"という描写や、青年の"額に深く皺を刻んで、それに大へんつかれているらしく、無理に笑いながら"という描写から、水死したという事が解る。"水死"がカムパネルラとも共通するのは偶然だろうか。
 三人が銀河鉄道に乗るようになった経緯は、青年の口から詳しく語られている。


「いえ、氷山にぶっつかって船が沈みましてね、わたしたちはこちらのお父さんが急な用で二ヶ月前一足さきに本国へお帰りになったのであとから発ったのです。私は大学へはいっていて、家庭教師にやとわれていたのです。ところがちょうど十二日目、今日か昨日のあたりです、船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです。ところがボートは左舷の方半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗り切らないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈って呉れました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても押しのける勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。けれどもどうして見ているとそれができないのでした。子どもらばかりボートの中へはなしてやってお母さんが狂気のようにキスを送りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立っているなどとてももう腸もちぎれるようでした。そのうち船はもうずんずん沈みますから、私はもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて、浮べるだけは浮ぼうとかたまって船の沈むのを待っていました。誰が投げたかライフブイが一つ飛んで来ましたけれども滑ってずうっと向うへ行ってしまいました。私は一生けん命で甲板の格子になったとこをはなして、三人それにしっかりとりつきました。どこからともなく〔約二文字分空白〕番の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれをうたいました。そのとき俄かに大きな音がして私たちは水に落ちもう渦に入ったと思いながらしっかりこの人たちをだいてそれからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです。この方たちのお母さんは一昨年没くなられました。ええボートはきっと助かったにちがいありません、何せよほど熟練な水夫たちが漕いですばやく船からはなれていましたから。」


 はじめジョバンニは、この3人へあまり良い印象を持っていない。

「さあ、向うの坊ちゃんがた。いかがですか。おとり下さい。」
 ジョバンニは坊ちゃんといわれたのですこししゃくにさわってだまっていましたがカムパネルラは
「ありがとう、」と云いました。すると青年は自分でとって一つずつ二人に送ってよこしましたのでジョバンニも立ってありがとうと云いました。

 という青年に対するジョバンニの気持ちの描写や、

 (ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうに談しているし僕はほんとうにつらいなあ。)ジョバンニの眼はまた泪でいっぱいになり天の川もまるで遠くへ行ったようにぼんやり白く見えるだけでした。

 というようなかおる子への嫉妬心の描写などがある。(ジョバンニの嫉妬を参考)しかし、汽車が下りになった時からジョバンニの機嫌も直り、かおる子ともうちとけて蝎の火の話などをするようになる。
 3人は天上へ向かうため、サウザンクロスで降りてしまう。青年、かおる子、タダシはキリスト教信者である。思想の違うジョバンニ達と分かり合えずに言い争いになる場面もある。(宗教の考察を参考
 かおる子たちのタイタニック号沈没の話は、蝎の火、カムパネルラの話と共通し、賢治の思想の一つである自己犠牲を表しているものだ。かおる子たちとカムパネルラは他人の身代わりで亡くなった代わりに天上へ行き、蝎はうつくしい火となった。これは賢治が、美しい心を持っていたとしは天上へ向かったと考えて、としへの鎮魂として書いたためだと考えられる。しかし、ジョバンニは現実世界へと戻り、生きて、ほんとうのさいわいという理想を実現しようと心に決めるのである。

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