ブラジル音楽の起源とブラジルの歴史

前半 / 後半

 1880年代には国内における反奴隷制度の動きがさらに強くなった。そして1888年には「黄金法」が制定されることになり、250万人にものぼったブラジル黒人奴隷は自由の身となったのだ。「黄金法」は反対の動きもなくすんなりと可決されたが、実は問題も残されていた。

  その問題とは、もはや黒人奴隷の労働力は必要とされなくなっていて黒人達の為の働き口はなくなり、生活ができなくなってしまった、ということである。そのため、奴隷身分だった時と同じように黒人同士が集まり、互いに助け合いながらファベーラと呼ばれる所に住むことになった。そして、奴隷の完全開放の翌年にブラジル史初の共和制が政治体制として採用され、ポルトガル人・黒人を中心とした、多民族国家ブラジルが出来上がったのである。

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Q5. 「国内における反奴隷制度の動き」とは具体的にはどういうものですか?なにか事件や戦争は起こったのですか?また、特別な指導者のような存在はあったのですか?

A5. 当時民間、特に都市部での反奴隷感情はかなり高く、1880年にリオ・デ・ジャネイロで「ブラジル奴隷反対協会」と「奴隷解放中央協会」が結成され、1883年にはブラジル全国組織「奴隷解放連盟」ができていました。暴動などは1889年に起こった軍事クーデターを除けば大きなものは特にありませんでした。

Q6. ファベーラとは一体どのような所ですか?

A6. ファベーラとは、都市部の山の斜面、川沿い、高架橋の下などの空いている公有地を「不法占拠」する事によってできたスラム街のような集落の事です。衛生面などの問題も多かったようです。
現在でも、ブラジルには多くの途上生活者が存在します。また、ストリート・チルドレンと呼ばれる家がない子供も多く存在します。彼らの多くが義務教育すら受けることができずに苦労しています。

Q7. 西暦何年にブラジルは共和制になったのですか?どのように帝政から共和制に移動したのですか?ブラジルの憲法の特徴も教えてください。

A7. 無償の黒人奴隷の完全開放が決まったことから、大農園主には不満が生じ、教会や軍部でも皇帝への批判が強まりつつありました。大衆にも共和制をのぞむ声が高まり、こうした状況を背景に1889年にリオ・デ・ジャネイロの陸軍デオドーロ・ダ・フォンセッカ元帥を首謀とした軍事クーデターが発生し、ペドロ2世は退位させられました。これによりブラジルは事実上共和制国家となったのです。

  なお、最近で共和制に移行したのは憲法が発足した1991年です。新憲法の内容が旧憲法のそれから大きく変化した部分としては、「それまで反政府分子を抑圧してきた「国家治安法」を廃止し、拷問を禁止したこと」、「国民投票と発議権を規定したこと」、「プライバシーや労働者の権利を守る項目が追加された事」などが挙げられます。

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 このように、厳しい歴史を歩んできた黒人だからこそ、陽気でにぎやかなパーカッションによるサンバのリズムを生み出す事が出来たのかもしれない。今日では、ブラジルは「民族の協調」をめざしている。黒人奴隷が生み出したリズムがルーツのサンバにあわせてどの人種もカーニバルで陽気に踊る・・・こんな姿こそ、ブラジルが目指している光景ではないだろうか。

BY THE WAY1 〜ブラジルの民族区分〜
ブラジルには大きく分けて4種類の民族が存在する。まずは先住民族・そして16世紀に入植したポルトガル人の子孫、奴隷としてアフリカから連れてこられたアフリカ系黒人の子孫・19世紀に移住してきたヨーロッパ人・アジア人である。その中で,ポルトガル人をはじめとするヨーロッパ人は実に50%以上を占めている。

BY THE WAY2 〜ブラジル人の挨拶〜
基本的に挨拶は握手だが、したしい友人と挨拶する時は抱擁をすることも多い。友達や知り合い数人と顔を合わせるときにはそこにいる人全員と握手を交わすのが礼儀とされる。また、年齢や収入などのプライバシーに関わる質問をするのは失礼とされる。