本文へスキップ

前ページへ

太宰府の寺院の歴史 

かいだんいん
 戒壇院


 奈良時代、仏教は国家仏教でした。戒壇とは、僧尼として守るべき※戒律をさずける所でした。

そこで※を受けなければ正式な僧はもちろん、また高僧にはなれませんでした。

その階段は、奈良の東大寺、太宰府の観世音寺、下野(栃木県)の薬師寺の三ヶ所しかありませんでした。
 観世音寺は、戒壇院をもつことによって西海道(九州)中野僧尼、寺院を権限の支配下におき、名声と功績ともに「府の大寺」といえたのです。
 戒壇院は中世には使われることがなくなりましたが、江戸時代に再建され、観世音寺から分かれて離されると、独立して禅宗の寺になりました。

 ※戒律…宗教で守らなければいけない規則のこと

    …宗教における禁止事項

 


か ん ぜ お ん じ
 観世音寺

 観世音寺は、『中大兄皇子(天智天皇)』が母『斉明天皇』の死の冥福を祈るために発願した寺院です。
 『府の大寺』ともいわれていました。
 斉明天皇は、唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済を助けるため九州に下りましたが、661年福岡県の朝倉市で亡くなりました。
およそ80年の歳月を費やして746年(奈良時代)に完成した観世音寺は、政庁の隣に法三町の寺域をもち、講堂、金堂、五重塔など※七堂伽藍の整った大寺院でした。

761年には、日本3つしかない戒壇がおかれ、九州の僧や尼たちに戒律をさずけることができる唯一の寺院として栄えました

観世音寺では、仏教行事のほかに外国使節をもてなす饗宴の時にも行われた伎楽や大唐楽などの演劇が行われたと思われていました。    

この過ぎ去った時の大きさをしのばせる日本最古の※梵鐘(国宝)や、平安時代から鎌倉時代にかけての仏像(すべて重要文化財)が数多く残っています

紫式部がつくった『源氏物語』にも登場しています。

梵鐘…寺院の梵鐘をつるす堂の釣り鐘、青銅製が多く、撞木という仏具で打ち鳴らす。

 七堂伽藍…完全に仏教に関係する建物を備えた寺院のこと



こくぶじ・こくぶにじ
 国分寺・国分尼寺

 国分寺・国分尼寺は、仏教の力によって国を守り、災いを取り除こうと考えた『聖武天皇』は741年、国分寺建立の命令を発して、地方の国ごとに国分寺と国分尼寺を建立しました。。
 筑前の国分寺は、大宰府政庁の北西約1kmのところにあり、現在は金堂の後に本堂が建てられ、平安時代後期の作品とされている伝薬師如来でんやくしにょらい像が安置されています。
当時、講堂や七重塔などが立ち並んでいたそうです


トップへ



サイト名

このサイトは第13回全日本中学高校WebコンテストThinkQuest JAPANに参加しています。