文字を開発した人

文字は長い時間をかけて発達し、またいろいろな系統に分かれていきまいた。しかし中にはただ1人の人間が新しい文字を開発し、それが広まったという例が世界史にはいくつか存在します。

チェロキー文字 ―シクウォイア―

アメリカ大陸の原住民であったインディアンの中に、チェロキー族と呼ばれる民族がいました。彼らは16世紀にはすでに民族として成立しており、独自のチェロキー語を使用していたようですが、「文字」を使うことをしませんでした。

チェロキー族は文字を知り、驚いたようです。その中のひとりシクォイア(1767〜1843)は19世紀はじめに、チェロキー語を記すための文字を開発することを決意します。シクウォイアは開発に没頭し仕事を放棄したために、周囲からはあまりよく思われていなかったようです。しかしついにその地域においてはじめての文字、チェロキー文字を発明します。またシクウォイアはチェロキー族の住む地域を回って自らその文字を宣伝し、文字の利便性を訴えました。はじめは困惑していたチェロキー族も次第に納得し、文字を受け入れます。その後またたくまにチェロキー文字は広まり、公用文字となりました。

▲(左)シクウォイア。体に障害を持っていたという。(右)チェロキー文字。

シクウォイアはその文字を開発するにあたって、各言語の教科書を参考にしたといいます。そのため、文字のデザインは様々な文字の形に真似られているように見て取れます。

クリー文字 ―ジェームズ・エヴァンス―

カナダの伝道師であったジェームズ・エヴァンス(1801-1846)も、独自の文字を作りました。イギリスで生まれ、幼いころから外国語が得意だったエヴァンスは、1820年にカナダに移住します。そこで彼はインディアンに布教する、英国ウェスレー宣教団に参加します。彼はその地域のインディアンが使用していたオジブウェー語を学び、オジブウェー語をローマ字で表記した聖書の翻訳版を出版しました。しかしこれは”当て字”でしかなく、評価はあまりよくありませんでした。

彼は以後もクリー族インディアンの教育に力を入れます。しかし、クリー族は「文字」を持たないために文明が発達せず、このままでは植民地の奴隷にされてしまうとエヴァンスは恐れました。クリー族はクリー語を話すのですが、対応する文字はなかったのです。そこでエヴァンスはクリー語の文字を開発することを決めるのです。彼はデーバナガリー文字を参考にして、なるべくインディアンが簡単に文字を習得できるようにするために基本となる文字は9つのみとし、そこから36種の文字を作りました。1840年のことで、これがクリー文字となりました。エヴァンスは印刷機や印刷する紙、インク、鋳型などをすべて自作し、クリー文字の本を発行します。こうしてクリー語はクリー族・インディアンの間で普及し、また他の宣教師の活動で、イヌイットにも伝えられました。

▲クリー語。表記が簡単である。

 

インディアン間で使用されたクリー語は後にラテン文字に取って変わられてしまいますが、イヌイットの間では、現在も残っています。なおエヴァンスは、その後周囲で多発したスキャンダル問題やエヴァンスの反抗のためにカナダを追放され、帰国後まもなく病のために亡くなります。そのためもあってか、エヴァンスの業績は現在も、とかく批判されがちです。

 

ハングル文字 ―世宗(せいそう・セジョン)―

ハングルができる前、当時の韓国では、韓国語と言語体系が異なる中国の漢字が使われていました。しかしこの漢字を理解できるのは高級官史や学校に通えるお金持ちなどの支配層のみであり、一般庶民は書くことはおろか読むこともままならないといった状況でした。そこで、朝鮮王朝第4代王の世宗は一般民衆にもわかりやすい独自の文字を作るため、当時の優秀な学者を集めハングルを作りました。

▲世宗(1397-1450)。

そして、1446年10月9日に大々的に公布され、朝鮮語の正確な表記が出来るようになりました。当時はまだハングルという名称はなく「訓民正音(フンミンチョンウン)」と呼ばれていましたが、知識人たちはこれを「諺文(おんもん)」と言って蔑んでいたそうです。ハングルが正規の書記手段として受け入れられたのは、それから数百年後で、開化期になり民族意識が高揚したためにハングルが広く用いられるようになりました。

その他の個人が開発した文字

その他にも、上のような例がいくつかあります。

●ゴート文字

4世紀ごろ、ゴート族(ゲルマン族)のウルフィラが聖書をゴート語に翻訳するために考案。ギリシャ文字やラテン文字を参考にしている。

●グラゴル文字

9世紀半ば、東ローマ帝国の兄弟―修道士であるキュリロス(827-869)と司教であるメトディオス(826-885)―が聖書をスラヴ圏の言語に翻訳するために考案。ギリシャ文字を参考にしている。後にキュリロスの弟子らがグラゴル文字を改良してキリル文字をつくりあげた。グラゴル文字自体はほとんど使用されなくなったが、近年までクロアチアの一部の地域でわずかに使用されていた。