著作権の歴史

MENU

著作権(ちょさくけん)の始まり

 著作物は昔からたくさんありましたが、それらを保護する必要性が意識されることはありませんでした。しかし、経典(けいてん)聖書(せいしょ)などの宗教的書物が普及(ふきゅう)していくにつれ、それらを世界中に広めるために大量生産の必要性が出てきました。
 そのような時代背景の影響で活版印刷技術(かっぱんいんさつぎじゅつ)が向上しました。活版印刷技術では東洋が進んでいて15世紀ドイツで活版印刷機(かっぱんいんさつき)が発明されました。その影響で書物のコピーが簡単になり書物の価値を保護できていない状況でした。そこで、著作物を保護する著作権の必要性が出てきて、著作権に関わる制度などが誕生し始めました。

この当時の著作権に関する制度の中で代表的なものとして次の二つがあります。

・アン法・・・1710年イギリスのアン王女により版権保護を目的として定められました。この影響でほかの国でも出版に関わる法律が制定されました。

・ベルヌ条約・・・1886年スイスで各国の代表者が集まり、国際的な著作権保護を目的として結ばれた条約です。1887年にはこの条約は発行(法律や規則などの効力が発生すること)されました。


ベルヌ条約の原則

[T] 自国民と同様の権利を相手国の国民や企業に対しても保障すること

[U] 条約加盟前に作られた著作物も条約に加盟した国の間で保護する

[V] 著作権が成立するのに特別な手続きなどはなしに、作られると同時に著作権が成立する

アメリカの著作権問題

 こののちに歴史で問題になったのは、アメリカがベルヌ条約に加盟しないことでした。アメリカは中南米諸国(ちゅうなんべいしょこく)とパン・アメリカンという条約を結んでいました。その条約の中でアメリカと中南米諸国は方式主義(著作物として登録すること)を適用していました。つまり、アメリカや中南米諸国で著作権が保護されるには法律の決まりで正式な手続きが必要でした。
 方式主義と無方式主義は著作権の発生のしかたが異なるので、国際的な著作権の保護がなかなか進みません。そこで、国際的な著作権の保護をスムーズに進めるため、1952年にスイスで万国著作権条約(ばんこくちょさくけんじょうやく)が作られ、3つの必要な取り決めが作られました。万国著作権条約とはアメリカが中心となって1952年に成立した著作権保護に関わる国際条約です。


万国著作権条約の原則

[T] 自国民と同様の権利を相手国の国民や企業に対しても保障(ほしょう)すること

[U] 万国著作権条約に加盟(かめい)する前の著作物は同条約により保障する必要はない

[V] Cマーク(コピーライトマーク)を表示する

Cマークは、著作者の名前・著作物の公表した年、日付を見やすい位置に表示します。Cマークには法律的効果はありません。

方式主義と無方式主義
ページ上部へ