(1枚目の写真は、「ユーカリ樹」より)
空海の時代から国学が学ばれ、江戸時代には寺子屋や講堂館などで讃岐の人々は学門を学んできた。
幕末には木内龍山先生が古高松小学校の前身として、自分の屋敷で40〜50人の児童に勉強を教える。木内先生の石碑が昭和8年に建てられ、いまでも残っている。
そんななか、明治維新になると学制を政府が公布し、小学校・中学校を設立した。古高松では津之村の妙覚寺を仮校舎として、古高松だけでなく、屋島や庵治、新田などの児童に公教育をした。
年を逐うごとに制度はかわり、明治43年には一村一校制となり、古高松尋常高等小学校が原校地にできる。このころは1年に50銭を授業料として負担し、文房具や学習机、教科書も各自が準備した。教科は10〜13科目あり、論講や修身など今ではない科目もたくさんあった。
女子の就学率は当初、男子の4分の1だったが、明治の終わりには男女ともにほぼ100%に達した。このころは、皆和服で遠足のときは草履(わらじ)がけで春日川で柳行李に入った弁当を食べた。
昭和3年(1928)10月、古高松小学校に昭和天皇・香淳皇后の御真影が下賜された。正門脇に新設された鉄筋コンクリート製の奉安殿に安置され、前を通るときま必ず最敬礼した。戦後、御真影は香川県庁に返還され、奉安殿も撤去された。
戦時中は、大阪の港区の小学生が古高松に学童疎開をしており、喜岡寺から通学した。そのほかにも、陸軍の中の1隊が駐屯したり、運動場がサツマイモ畑になったりした。また、高松大空襲のときには避難場所になった。
そして、戦争も終わり、人口が増えたため、1980年には古高松南小学校ができた。また、1979年にはすべての校舎の改築が終わる。そして2007年、古高松小学校は100周年を迎えた。
(引用:「ユーカリ樹」)
1940年(昭和15年)2月11日 - 古高松村の高松市合併に伴い高松市立古高松尋常高等小学校に改称した!
- やさしい子:美しいものに感動し、友達やまわりの人の心も考えながら、やさしさをことばや態度や表情であらわして生活できる子
- つくりだす子:自分でめあてをつくり、それに向けてよく見たり、聞いたり、考えたりしながら自力で問題を解決していく子
- たくましい子:自分の心と体を健康にするために、自分の生活を見直し、何事にもがんばる子
|
《まとめ》
江戸時代からずっと戦争の中でも学校本来が、絶えながら子供たちを見守っていることが小学校・中学校の役目だと感じる!
いろいろな歴史を残しながら、生徒や先生、親などたちと一緒に成長していくんだなぁと言うことが分かる!
|