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アフリカ系アメリカ人の歴史(Page 3)
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X. 奴隷廃止論の高まり
Key Person
- デービッド・ウォーカー (David
Walker) -
黒人であり、黒人の独立を信じたデービッド・ウォーカーは奴隷廃止を主張した。著作の「Walker's Appeal … to the Colored
Citizens of the World(有色人種への喚起(*))」の中で黒人が暴力的な手段にでてでも奴隷制度に対して反発するべきだとした。また、黒人が独立した社会集団をつくることを呼びかけた。
*訳は、当ページ作成者のもので、不正確の恐れがあります。
白人による奴隷廃止の動きだけではなく、黒人が自主的に反奴隷制度運動を繰り広げていくことになっていく。デ〜ビッド・ウォーカーは黒人として奴隷制廃止の動きを取った。
1827年、黒人による初めての新聞「Freedom’s Journal」が発行された。奴隷廃止を強く信じて1829年に「アピール」を表したデービット・ウォーカーは、奴隷制度を強く非難して黒人奴隷が自由を求めて戦うことを呼びかけた。彼の著作はアフリカ系アメリカ人がいかに残酷な目にあっているかを認識させるものであった。
しかし、こうした奴隷廃止に関する書物は州政府によって禁止される結果となった。
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BY THE WAY 〜
奴隷廃止運動以外に黒人が取った選択 〜
黒人に対する差別と法による黒人に対する様々な制限に嫌気のさした一部の黒人は国外に移動にすることを考えた。シエラレオネやリベリアなどのイギリスの植民地に行った黒人も存在した。他にもヨーロッパやメキシコなどが移植先として選ばれた。また、1833年に奴隷制度が廃止されたカナダに自由を求めてやっていく黒人もいた。しかし、そう簡単に定着した生活を捨てて国境や大西洋を横断できるわけもなく、大多数のアフリカ系アメリカ人は国内に残ることになった。
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A. 奴隷制度廃止運動
Key Person
- ウィリアム・ロイド・ギャリソン(William Lloyd Garrison) -
奴隷廃止論者のウィリアム・ロイド・ギャリソンは1831に反奴隷運動専門誌の「The Liberator」を設立した。白人の立場から奴隷制の即時撤廃を求めた。南北戦争後は、女性平等やアメリカ先住民族の権利の保証を求めるなどの運動を行った。
奴隷廃止運動は、ギャリソンと彼が設立した新聞社「The Liberator(解放者)」が参加したことによって、一層の勢いを得た。1831年夏には、バージニア州で黒人による暴動が起こった。ギャリソンの奴隷解放運動は40年にもわたり奴隷廃止に向けて非常に大きな影響を与えた。ギャリソンの支持者は反奴隷連盟(the
American Anti-Slavery Society)を結成し、奴隷制度は倫理的に間違っており、即時撤廃をするべきだと主張した。
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BY THE WAY 〜
テキサス共和国の参入 〜
1845年にそれまで独立して存在していたテキサス(共和国)はアメリカ合衆国に併合されることになった。こうして、奴隷制を支持するテキサスが一州としてアメリカに入ることになった。
(北部の州の奴隷制廃止論者と南部の州の奴隷所有主との争いは激しくなっていった。)
Key Incident
| ドレッド・スコット事件の判決 |
ドレッド・スコット事件とは奴隷身分だったドレッド・スコット(Dred Scott)が自由身分を求めて裁判を起こした事件のことだ。1857年に出た最高裁判所の判決にでた。「アフリカ系アメリカ人はアメリカ国民ではなく、アメリカ国民としての市民権を主張することはできない。当然、連邦裁判所に訴える権利もない。」という判決内容だった。黒人は「so
far inferior that they had no rights which the white man was bound to
respect(卑下されるべき存在であり、白人が持って生まれた尊厳を主張する権利はない(*))」という判決だった。
*訳は、当ページ作成者のもので、不正確の恐れがあります。
この判決からもわかるように、黒人奴隷や先住民族などの有色人種は当時のアメリカ社会の中では人間として扱われていなかったのである。ただの、労働力となる所有物としての黒人が扱われていたことが、ドレッド・スコット裁判からわかるだろう。
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