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アフリカ系アメリカ人の歴史(Page 4)
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Y. 南北戦争(1861-1865)
南北戦争とは、奴隷廃止を求める北部と、奴隷廃止に反対する南部(アメリカ南部連合国)が、国を二つに分けて戦った戦争の事である。戦争は、北部が一方的に勝利するかと思われていたが、南部にはロバート・リー将軍などの優秀な指揮官が存在していて、決着には時間がかかった。最終的には、北軍が勝利を収めた。
リンカーンは63年1月1日、合衆国に対して反乱状態にある南部諸州の奴隷に、63年1月1日以降自由をあたえるという奴隷解放宣言を発した。リンカーンの人種問題に対する方針変更の合図となり、やがて65年の憲法修正第13条による奴隷制の全面的廃止にいたった。
関連資料2 → ”ゲティスバーグの演説
(Gettysburg Address)”
〜 映画「風と共に去りぬ」 〜
映画「風と共に去りぬ」は、南北戦争前後のアメリカ南部を舞台にした映画です。この映画の中では、奴隷として綿の農場で使われている黒人の様子や、当時の南部アメリカ人の生活を見ることができます。
黒人の話している英語の中に「I’s the one who say “quitting time”.」というものがありますが、「I am
the one who say…」のはずですよね。 このように、当時の奴隷には適切な教育はされていなかったようです。
また、主人公のマーガレット・オハラは、アイルランド系の白人であり、アイルランド系移民が南部に進出していたこともわかります。このようにアメリカ社会とは、主要のグループWASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)の他にも様々なグループが存在することがわかります。
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Z. 奴隷解放宣言と黒人のその後の状態
北部連邦軍の勝利によって、1863年からアメリカ合衆国では奴隷制度が廃止されることになった。しかし、南部の黒人は戦後もきびしく自由を制約された。
奴隷身分であった黒人達は、白人の土地を与えられて経済的に自立できるだろうと思っていた。しかし、黒人の農民には土地が与えられずに、また他の職業にも移ることは難しかったようだ。結局、1868年頃からシェア・クロッピングと呼ばれる制度が普及していき、大半の元奴隷は小作人(シェア・クロッパー)となった。つまり、小作農として地主から土地を借りて、そこで農業をするわけだ。つまり、白人の地主に経済的に支配されることになったのだ。
北部の連邦軍による南部占領中は、黒人の指導者が政治的役職についたり、多少の政治的改革をすすめることもあった。政治改革とは、公教育の改善、財産による投票権制限の撤廃、債務による投獄の廃止、公共施設の人種隔離の廃止などである。サウスカロライナ州やルイジアナ州では、黒人が副知事などの要職に進出した。上院議員に2人、下院議員に20人ほどの黒人代表が送り込まれたが、黒人が連邦政府をうごかすことはできなかった。
こうした黒人の社会進出に対して、1865年にクー・クラックス・クランが結成された。保守的な白人がグループとなって黒人を危険にさらすようになっていった。
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[. 第1次世界大戦と黒人の大移動
1900年頃から、黒人の大移動が始まった。この黒人の大移動とは、いままで南部に集中していた黒人の人口が北部や東部が移っていったことだ。虫害によって南部の綿生産が打撃を受けたことや、第1次世界大戦によって軍需用品の需要が伸び、北部での仕事が増えたことが原因となった。南部では依然として元奴隷であった黒人に対しての人種差別・迫害が激しかった。このような事実が背景で、黒人は南部を去り、北部に移動を始めたのだ。
北部では、第1次世界大戦の影響でヨーロッパからの移民の流入が少なくなっていた。それに対して、大戦には参加していなかったアメリカ合衆国は、ヨーロッパ諸国に砲弾などの戦争関連の部品を輸出するようになっていた。労働力が必要だった工場では、南部を去ってきた黒人を雇ったのだ。1910〜1930年の間に、150〜200万人の黒人が北部・東部に移動した。New
Yorkに20万人、シカゴに18万人、フィラデルフィアに13万人が移り住んだ。
人口が急激に増えたことによって黒人の政治的な重要性を増した。
この人口移動によって、かつては南部に限られていたジャズやブルースが、第1次世界大戦中には北部の都市に広まり、北部における黒人社会の形成の中で変化していくことになった。この人口移動は、単なる場所の移動ではなく、社会・文化を大きく変化させたと言える。
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\. 大恐慌と第2次世界大戦
1930〜40年代になると黒人労働者は各種の産業にすっかり根をおろしていた。黒人票は歴史的な転機にさしかかり、南北戦争から支持してきた共和党にかわって民主党に投じられるようになった。フランクリン・ルーズベルトが大統領選挙に勝利して2年後の34年の選挙では、黒人票の大半がはじめて民主党候補を支持した。
しかし、第二次世界大戦後も有色人種に対する差別がやむことはなかった。これに対して、アフリカ系アメリカ人達は公民権運動と呼ばれる社会運動を起こし、自分達の立場を主張していった。
その公民権運動のなかでも、一番の功績をあげ、歴史に残ったのがマーティン・ルーサー・キング牧師である。彼はキリスト教の考えから、白人との平等を主張した。
関連資料3 → ”キング牧師研究”
(この資料は、キング牧師の生きた時代の様子を調べたレポートである。慶應湘南藤沢高校の卒業論文である「自由研究」で提出されたものを基本に、改変してある。)
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