〜 アフリカ系アメリカ人の歴史(Page 1)

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I. 奴隷貿易によって「商品」としてアメリカ大陸に運ばれた黒人
 1500年頃、黒人奴隷はポルトガルの貿易商人によって農業のための労働力として取引されるようになった。
 1860年までには1000万余りの人々がアフリカ大陸から南北アメリカ大陸に送られた。彼らはカリブ海の島々、ブラジル、スペイン領地の南アメリカ、そして北アメリカに送還され奴隷として働かされたのだ。現在のガーナ、ナイジェリア、トーゴ、セネガル、ガンビアなどの地域から黒人を仕入れてきていた。2・3ヶ月の大西洋上の航海後にアメリカ大陸上で商品として取引された。

 

 右地図において点線で囲まれている部分が、アメリカに奴隷として連れてこられた人々のもともと住んでいた地域である。

 赤く塗りつぶされている国が現在のガーナ、ナイジェリア、トーゴ、セネガル、ガンビアである。

 現在の中央アフリカ諸国がある場所から、多くの黒人が連れ出され、奴隷として取引された。
 

 北アメリカのイギリス人植民者は農業の為の労働力不足を解消するために、黒人奴隷制を開始した。イギリスが本格的に奴隷貿易に着手するのは1672年に王立のアフリカ会社が設立されてからである。ブラジル(ポルトガル領)やカリブ海地域が16〜17世紀にサトウキビ農園に奴隷を導入して成果をあげていたことが、北アメリカの植民者にとってモデルとなっていた。その前から労働力として使っていたアメリカ先住民(インディアン)や白人の年季契約奉公人では、農業労働力が足りなくなってきたのだ。北アメリカに連れてこられたアフリカ人の大半は、タバコ、米、木綿などの輸出作物の生産に投入された。

 白人労働者は契約によって働いていた。つまり、その契約が切れるとさっさといなくなってしまうわけだ。それに対して、黒人は農園労働力となるように法制が整えられて、奴隷としての服従を強制されていった。人種間の交婚は禁じられ、奴隷身分からの解放に制約がくわえられた。つまり、白人と黒人は完全に主従関係が強いられ、人種的に隔離されたわけだ。

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U. イギリス植民地時代の黒人奴隷
 北アメリカのイギリス植民地に運び込まれた黒人の優れた稲作・牧畜・治水の能力が植民地時代の大陸開拓に役にたった。例えば、北アメリカ南部のメリーランド・バージニア・ノースカロライナでは米を、サウスカロライナ・ジョージアではインディゴ(藍)の栽培に黒人の技術が生かされた。この他にも、家庭での使用人、会計人、音楽教師、鍛冶職人、大工など様々な職業をこなした。



〜アフリカ系アメリカ人の人口〜
 1750年までにはイギリス領北アメリカに24万人のアフリカ系アメリカ人が存在していた。南部のバージニア、メリーランド、サウスカロライナに多くが住んでいた。24万人の中で95%が奴隷という身分であった。奴隷の立場から解放されるには金払って自分自身を買うか、親戚から買ってもらうしかなかった。

〜所有物として扱われる奴隷達〜

 白人の奴隷主はアフリカ文化を否定・抑圧した。奴隷が英語を話し、白人によって植付けた技能や知識にたよるようにしむけたほうが奴隷を扱いやすいと信じていた。こうした白人の強制が、アフリカ化された英語、キリスト教、西洋文明と混じり合い、彼ら独自のアフリカ系アメリカ人の文化を生みだしたのである。

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BY THE WAY 〜 「奴隷」と同じく「移民」も苦しかった 〜
 知っていただろうか。奴隷のように自由を束縛されて働かされていたのは黒人だけではないのだ。貧しいヨーロッパ人や一部のアフリカ系アメリカ人は年季奉公人として自由を束縛され重労働をさせられた。奴隷と奉公人の違いは、前者が本人の意思に関係せず労働を搾取され奴隷の子供も奴隷かさせられるのに対して、後者は自主的に奉公先と契約を結び7年程の契約期間を終了すると自由身分になることができることだ。例えば、貧しいヨーロッパ人はアメリカ大陸に船で移住することに引き換えに契約を結び、移住後に奉公人として働くことを選んだ。そして契約期間が過ぎると、土地と衣服をもらい自由の身となった。

関連情報移民となったアイルランド人