メディチ家

ジョバンニ

コジモ

ピエロ

ロレンツォ

ジュリアーノ

ジョバンニ
(レオ10世)

ジュリオ
(クレメンス7世)

 

コジモ・ディ・メディチ
(Cosimo de' Medici)(1389年 - 1464年)

「祖国の父」

 「祖国の父」と呼ばれるコジモは15世紀フィレンツェ最大の商人であり、「最高の支配者」であったとされています。フィレンツェ・ルネサンスというと孫のロレンツォ豪華王の名がよく上がるのですが、ロレンツォは実際、芸術にあまり関心がなかったといわれています。コジモのおかげでメディチ家に「芸術家パトロン」というイメージが定着していたので、ロレンツォも芸術家のパトロンであったかのように錯角されています。コジモが支援した建築家や芸術家には、ドナッテロ、ギベルティ、ボッティチェリ、ベノッツォ・ゴッツォリ、フィリッポ・リッピ、フラ・アンジェリコなど多くの巨匠がいました。当時のフィレンツェの有名な芸術家でコジモに接したことのない者はいなかったといわれています。コジモのおかげで、フィレンツェは長い間繁栄をすることができたのです。これがフィレンツェが世界一の芸術都市になった大きな要素でもありました。

波瀾万丈の人生

 幼少よりジョバンニの英才教育を受けたことで、学問や芸術が好きになり、経験豊かな銀行家・実業家となりました。また、優れた才能でメディチ家は大きく成長しました。ジョバンニが教えた天才的な処世術(世渡りの方法)をコジモが受け継ぐことで、コジモの代でメディチ家はフィレンツェの頂点に上りつめることになりました。コジモがジョバンニの後を継いだ時、フィレンツェ共和国は、実権を握る一部の役人の支配下にありました。その中で、コジモは戦争推進派として、あるいは増税反対派として自分をアピールし、役人に対する市民の不満を上手に利用しながらメディチ党の拡大に乗り出しました。
 ジョバンニの代に行われていた組織活動が、コジモの代になって、メディチ党が役人に対抗する政治勢力として大きな力を持ち、大きく活動を展開するようになりました。コジモは1416年のプリオーレ(最高執政官・国の最も偉い人・今の大統領)に選ばれると、いくつもの重要な役職を務めることになりました。しかし、国会の争いに巻き込まれ、1433年に政府転覆のぬれぎぬで死刑の宣告を受けたのです。しかし幸運にも死刑宣告は撤回され、パトヴァへの10年間の追放となりました。パトヴァに流刑されたコジモはヴェネツィアに移り、同じく亡命していたロレンツォと合流しました。そして、追放1年後に内戦も暴動もなしに勝利の帰還を果たしました。このことはまさに波瀾万丈(はらんばんじょう)だったのです。

パトロンとして

 1434年、コジモがフィレンツェの権力を獲得しました、これは「静かなる革命」といえるものでした。
 コジモは、表向きは従来の共和制を維持しつつ、その裏で絶対的な自分の味方をたくさん作って、メディチ家の権力支配から逃れられないように固定化しました。それは一種の黒幕政治(独裁)で、フィレンツェの市民精神として生まれた「抽選による委員選出と短い任期による交替制」の中身を空洞化させていきました。そして、政治の権力を得たコジモは、先行するパトロネージの伝統を継承し、文芸が好きだったことから多くの芸術家に仕事を提供するなどパトロンとなったのです。この時期コジモの人文主義的個性も加わって古典研究にも力を注ぎました。ヨーロッパで最初の図書館ともなるサン・マルコ図書館、バチカン図書館、フィエーゾレのバディアにも宗教書の図書館が創設されていきました。
 プラトン・アカデミーの構想と、アリストテレス研究の援助など、学術やサークルの援助も惜しみませんでした。古典の収集のみならず、古代の美術品や工芸品も寄せ集めました。建築活動も前例の無いスケールで行われ、ジョバンニの代に着手されたサン・ロレンツォ聖堂の改築事業の推進、サン・マルコ修道院の再建事業、その他各地の聖堂、図書室、宿泊所の建設を指揮していました。この間メディチ家が政治の実権を握っていたことと、多くの学者や芸術家を招き、芸術を保護したため、フィレンツェはルネサンスの中心地となっていきました。
 このころ、メディチ銀行は海外への進出を果たしました。メディチ銀行の中心的な役割を担ったのはローマ、ベネチア、ジュネーヴ、フィレンツェの4支店で、中でもローマが全利益の3割を稼ぎ出していました。このローマ教皇庁依存体質は、さらに強化される方向に向かい、長期的に見れば大きなリスクを抱えていました。ローマ教皇は代替わりするものであり、新教皇の意向次第では締め出される可能性もありました。その時にメディチ銀行がローマ依存体質から抜けていなければ、メディチ家全体の深刻な危機に繋がることが明確であったのです。

ルネサンスの遺産を残す

 その後、コジモは「プラトン・アカデミー」を設立し、青年マルシリオ・フィチーノを主任としてプラトン思想を奨励していくことになりました。晩年のコジモは次のように語っていました。「この家はもう私達には広すぎる」「私はこの都市の移り気なことをよく知っている。だから、50年以内にメディチ家は追放されるだろう。だが、私がやらせた建築はそのまま残るだろう」実際には30年後に追放されることになりましたが、コジモが残したものは今もフィレンツェで大きく輝いています。1464年8月1日にコジモは75歳で亡くなりました。

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