メディチ家

ジョバンニ

コジモ

ピエロ

ロレンツォ

ジュリアーノ

ジョバンニ
(レオ10世)

ジュリオ
(クレメンス7世)

 

ロレンツォ・ディ・メディチ
(Lorenzo de' Medici)(1449年 - 1492年)

最高のパトロン

 ロレンツォは「豪華王」と呼ばれるとても偉大な人物でした。ロレンツォは商人としてメディチ家の絶頂期を極めました。小さい頃、祖父のコジモから徹底的に帝王学をたたき込まれ、若干16歳でフィレンツェの公使としてナポリに行き来しています。ロレンツォは会社の跡継ぎと言うよりは若様として育てられたのです。
 若い頃の彼の肖像画として有名なのがベノッツォ・ゴッツオリによる『東方三博士の礼拝』(メディチ・リッカルディ宮)です。この絵の中でロレンツォは紅顔の美少年になっています。しかし実際のロレンツォは、色は黒く鼻もひしゃげて声もかすれていてこんな美少年ではありませんでした。しかし彼はとても魅力のある人間で、一度会って話をした人は男性だけでなく女性までも彼の虜(とりこ)になってしまったそうです。
 ロレンツォはコジモの教育の成果もあり、成人した頃にはすっかり各国の要人達と顔なじみになっていました。やがて神聖ローマ皇帝からローマ教皇までもがメディチ銀行のお得意さまとなりました。ロレンツォはこれにより各国の政治に強い影響力を持ち、力の影響でフィレンツェに平和をもたらしました。
 ロレンツォはフィレンツェの内政上はコジモにゆずって、重要な地位に就こうとはしませんでした。かわりにメディチ家の親派がこれを独占し、実質的にフィレンツェの政治を握っていました。民衆にも人気があったため、サヴォナローラが登場するまでは、この独裁体制が揺るぐことはありませんでした。

暗殺未遂

 1478年、ロレンツォに人生最初のピンチが起こりました。「パッツィ家の陰謀」です。パッツィ家は新興のメディチ家に不快感を抱いていました。そして法王シクストゥス4世にそそのかされ、ロレンツォの暗殺を決意します。そしてフィレンツェのドゥオモで決行されることになりました。ミサに参列中のロレンツォとジュリアーノに刺客が襲いかかります。ジュリアーノは死亡。ロレンツォは手傷を負いながらも新聖具室に逃げ込むことができました。暗殺計画はあっけなく失敗しパッツィ家の関係者70人あまりが処刑されました。
 ロレンツォは持ち前の政治力で陰謀後の混乱を乗り切り、自分の地位を守りました。
 ロレンツォによって宮廷文化はとても栄えます。彼はコジモの創設したプラトン・アカデミーを熱心に保護していました。当時フィレンツェではプラトン哲学がとても流行し、プラトン哲学をキリスト教にどうやって当てはめるか文化人たちが議論していました。その中には若い頃のミケランジェロの姿もありました。

ルネサンス絶頂期を創造する

 ロレンツォの時代に、宮廷文化としての文学、哲学、言語などの勢いが盛んになりました。しかしその反面、ロレンツォはキリスト教美術関係には無関心だったようで、コジモほど頻繁に作品を発注することはありませんでした。
 当時、いろいろな国の王がフィレンツェの美術家を欲しがったので、彼はそれを積極的に外交に利用します。そしてロレンツォは、ダ・ヴィンチやミケランジェロなどをミラノやローマに派遣しました。
 そのためフィレンツェ市内には大物美術家はいなくなってしまいました。そのため『モナ・リザ』もウフィッツィ美術館ではなくルーブル美術館にあります。
 彼が力を尽くすことでフィレンツェの繁栄は続き、ルネサンスの絶頂期を迎えます。
 ロレンツォはとても偉大な政治家でした。商人だったコジモとの大きな違いはここにあります。そのためメディチ銀行は傾き、やがて倒産してしまいます。ロレンツォ自身、持病の痛風が悪化し47歳の若さでこの世を去ります。その後、ロレンツォの死を待っていたかのように、サヴォナローラがフィレンツェで勢いを増してくるのです。

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