メディチ家

ジョバンニ

コジモ

ピエロ

ロレンツォ

ジュリアーノ

ジョバンニ
(レオ10世)

ジュリオ
(クレメンス7世)

 

ジョバンニ・ディ・ビッチ
(Giovanni di Bicci)(1360年 - 1429年)

ルネサンスの始まり

 ジョバンニは、イタリア各地に商社網を広げていた一族のヴィエーリ(メディチ家の基礎をつくった人物)に才能を見つけられます。そして、1386年に25歳でヴィエーリが経営していた「ローマ商会」の共同経営者となりました。ローマ教皇庁を主な得意先とする「ローマ商会」はヴィエーリの仕事の中で最も重要な位置でした。
 1393年、ジョバンニはヴィエーリが引退すると、その事業を引き継いで自分のやり方に変えました。
 1397年10月1日、「ローマ商会」の本店をローマからフィレンツェに移します。そして、フィレンツェの経済界で、メディチ銀行の第一歩を歩み始めました。
 1420年、メディチ銀行は優れた組織の構造と優秀な人材を雇うことによって急速に発展し、支店をヨ−ロッパの主要都市に展開しました。
 1426年11月にはアルプスを越え、当時の国際的な金融・商業の中心であったスイスのジュネーヴに支店を設立しました。それによりメディチ銀行は世界の舞台に進出することになります。銀行業の成功によってジョバンニの社会的地位も上がり、銀行組合の一人として共和国政府の重要な役職を務めることになりました。
 1402年・1408年・1411年には政府のプリオーレ(最高執政官・国の最も偉い人・今の大統領)に選ばれ、1419年にはバリーア十人会委員(国の偉い人が集まる会議)、1421年には「正義の旗手(国民の投票で選ばれる今の総理大臣のようなもの)」を務めました。その他にボローニャ大使、ピストイアの総督、ヴェネツィア大使にもなっています。
 ジョバンニは、政治にすごく慎重で、与えられた仕事を誠実に行いながらも要求されたこと以上は行いませんでした。また、有力者同士の土地の奪い合いにも一貫して距離を保ちました。これはメディチ家の歴史から考えられたもので、「慎重の上にも慎重に、できるだけ控えめに、敵を作らず、目立たないようにひたすら仕事に専念する」が教訓となっていたのです。
 1413年、メディチ家は共和国の多額納税者として注目されます。この頃ジョバンニはローマカトリック教会へ深入りしていきます。この頃は教皇がローマとアヴィニョンに2人いて、お互いに自分こそ正統の教皇で、相手が偽者だと言って大分裂していました。この教会の大分裂には、ヨーロッパ各地の民族国家形成の動きがあって、ローマ派とアヴィニョン派のどちらかが相手を服従させて吸収合併できるような状況ではなかったのです。お互いがミサでの派手さを見せつけ合い資金が不足していきました。この流れにメディチ銀行がのって、教皇庁の財政に深く関わっていきます。この頃の金利相場は年利20〜30%で、ヨーロッパ全体から教皇庁に集まってくる各国の通貨の両替手数料も高く、安全で確実な収入源でした。メディチ家が経済大国のフィレンツェで第3位の富豪になれたのも、これらから得られる収入のおかげと言われています。

パトロンに

 この頃のフィレンツェは、少ないお金持ちが権力を握って政治をする、独裁的な政治形態のなかで、ミラノ、ナポリと戦争状態にありました。しかし、ジョバンニは、いずれの有力者とも距離を保つことによって、彼らの政治的対立をやめさせます。ジョバンニは、都市の平和と市民全体の利益を優先して行動し、徐々に市民の信頼を得ることになりました。
 ジョバンニ以前のメディチ家は、他の大商人や貴族と比べて芸術活動への援助や教会への寄進活動が少なかったのです。しかし、ジョバンニになってからは熱心な保護者へと変わっていきました。
 14世紀になってルネサンスはさらに盛んになっていきます。しかし、この時点では、メディチ家は芸術的な活動への援助を競い合った有力家の一つに過ぎず、こうした多くの人々の援助が初期ルネサンスの活力の基礎になっていきました。ジョバンニは、それまでの「下品で暴力的で過激な一族」というメディチ家の印象を取り除きました。そして、メディチ家は、多くの市民の支持を集め国の政治の中心となりました。ジョバンニは義理と人情に厚い経営者で、趣味と教養をより良いものにしていきました。そしてフィレンツェの町に輝きと美しさをもたらす芸術のパトロンとして評価されるようになりました。ジョバンニは1429年2月20日に69歳で死亡しました。

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