体育教育は生涯にわたり健康を保つことに大きな役割を果たす。その一方で資金や考え方に国ごとに差があり、教育の内容も大きく変わってくる。
日本の体育教育では身体能力の高くない子供が疎外感を感じ、結果的に必要な技術を身につけることができなくなってしまう。一方欧米諸国では種目の少人数制、選択性をとっている国が多く、個人にあった指導を受けることが可能となっている。また、中東の国々ではイスラム教の教えにより、体育の授業が行われていないところもある。
日本の体育教育のほとんどは体を動かすことに焦点が置かれている。また、個人指導を受ける時間が少ないため、身体能力の低い子供が必要な技術を習得することができず、更に授業やチームから置いていかれ、疎外感を感じるようになる。個人の身体能力に依存した達成主義のカリキュラムは、体育の目標達成どころか全く逆の結果を与えてしまうことにつながりかねないという指摘がある。
アメリカではそれぞれの州に大きな権限があり、州や地域、学区の財政によって学校体育への取り組みや設備等に大きな違いがある。日本ではどの学校にも設置されている体育館でさえもアメリカの公立小学校には存在しない場合がある。予算が少ない学区では設備投資も少ないため、保護者や企業からの出資によってグラウンドの設備が整えられている学校も存在する。 アメリカでは日本の学習指導要領のように明確な方針があるわけではないため、学校によって教育の方針や内容に違いがある。体育に力を注ぐ学校もあれば、そうでない学校もあるため、住んでいる学区によって子どもたちの体力には大きな差が生じてしまう。
授業を受ける種目について選択性、少人数制をとっていることが多い。年間を通してシーズン制で、自分の選択した種目を自発的に学んでいく。教師はアドバイスをするものの、それに従うかどうかは自由である。成績も技術や身体能力によってではなく、出席率や授業への取り組み方が基準になる。
授業内では実技ではなく知識や理論が中心になっている。学校体育施設の所有を比べると、日本の方が、所有している数や種類も幅広い。特に、総合的に様々なスポーツで使用のできる施設が多い日本に比べ、韓国は1つのスポーツに特化した施設が特定の学校にのみ設置されている事例が多い。
イスラム教の教えにより、アラビア半島のような乾燥した砂漠の国ではマントで全身を包み、東南アジアのインドネシアやマレーシアでは髪の毛を隠している。男性も、信仰にふさわしい肌の露出の少ない服の着用が求められる。男女とも、体育で肌を露出するなんてとんでもないという風潮から体育の授業がない国がある。