科学技術高校です。今回は瀬名の歴史について探求したく、
インタビューをさせていただきます。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。事務局の伊久美です。
わわーここの郷倉よく見ると広くてきれいですね。
どうしてこんなにきれいに残っているんですか?
ここはもう使われていないんだけど大切なものがたくさんあって
今は「瀬名郷倉番屋」保存会の会長である三浦春夫さんや、事務局長の私などの
たくさんの人がこの郷倉を守るために、きっちり管理しているんだよ。
わー、そうなんですね。郷倉と番屋はいつ建てられたんですか
実は正確な建てられた年は不明で天保4年(1833年)に
建て替えられたと言われているんだ。
郷倉と聞くとみんなは珍しいものと思うかもしれないけど、
そもそも、各村々に郷倉と番屋がおかれたんだよ。
ちなみに郷倉の建物は指定文化財になっているんだよ。
230年前、青森県岩城山、長野県の浅羽山が噴火した。
この時、火山灰が東北地方に降り注いだことにより、数十万人が飢饉で亡くなった。
その時の記録が天明の大飢饉という言葉で書かれている。
このような飢饉をなくそうと、当時作物の中心であったお米を
守るため各村々に郷倉と番屋がおかれた。
ここ、郷倉と番屋にあるものはどうやって集められたのですか
地区の農家の方々から集められたものなんだ。以前数えたときは、
700点くらいあったけど、今はそれ以上に増えているよ。
この番屋に機織り機がありますが、機織り機は一家に一台あるのが一般的でしたか?
そうだよ。女の人が機織りをしていたんだ。
機織りをする家では、必ず綿のみを撒いて種を出す綿繰り機を使っていたよ。
昔の農民は、絹を着てはいけない。服の色の規制もあり
木綿の色でなければならなかった。
ほかにも、お茶を買って飲んではいけない酒もダメ、
お米を食いつかしてはいけないなど
たくさんの決まりごとがあった。
機織りをする家では、必ず綿のみを撒いて種を出す綿繰り機を
使っていた。戦争前くらいまで、くわ、タバコの葉を育てていた。
瀬名は、千石米どころと言われていた。
お米をたくさんとれる代わりに、裏作という米を取った後に、
麦を栽培していた。(二毛作)
瀬名村は裕福な生活をしている人が多かった。
番屋にお歯黒を塗る道具がありますが、お歯黒を塗る人はどういう人ですか?�?
結婚したことを表すために既婚者が塗っていたんだ。
だから結婚していない人は塗らなかったんだよ。
お歯黒とは「鉄漿(かね)」という化粧品の一種で染められた歯のことを言って、
虫歯予防にも使われてたんだ。年代はおもに江戸時代かな。
へー既婚者だけだったんですね。
全員の女性が塗るものかと思っていました。
番屋にはどんな風に寝泊まりしたんですか?
番屋は普段、今でいう公民館と同じ役割をしていたんだ。
だから普段は泊まることがなくて、災害が起きた時や緊急時でしか
泊まることが出来なかったんだよ。
公民館や自治会の原型が番屋。
囲炉裏があってみんな食べ物をもってきて、食べていた。
番屋の会議ではどういうことが話されていたんですか
庄屋さんがいて、今年のお米は少ないから代官に言って
「年貢米を少なくしてもらおう」などの話し合いや世間話を話していたんだよ。
話し合いって世間話もあったんですね。お米はどのくらいとれたんですか??
瀬名村は3350俵とたくさんとれていたんだよ。
村の名前 | 採れた量(年間) |
---|---|
平山村 | 26穀 |
長尾村 | 28穀 |
※瀬名川村 | 650穀 |
瀬名村 | 1337穀 |
※2つに分かれているので合わせたもの
1穀とは、大人が1年間に食べるためのお米の量
(例)1000穀だと、1000人が1年間に食べるための量
江戸時代の人たちは全員、頭に布を巻いているのはなぜですか。
冠や頭にホコリがつかないようにするためだと考えられるよ。
ほかにも、頭を保護するためとも考えられるよ。
最後に、郷倉は郷倉保存会のみなさんにとってどんなものですか?
瀬名地区は非常に歴史深いものなんだ。 私たちの先輩方が残してくれたものだから、
今後末永く保存していけるように保存会の活動をしていきたい
私たちの役割は、文化財を活用して次の世代に伝えていくことだ。
若い人たちに伝えることでどんな反応をするのか次にどんどんどんどん
伝えていきたいと考えているよ。