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長崎と原子爆弾
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メンバーの内の二人は、三鷹市の派遣事業を通して、長崎の原爆に関する多くのところに行きました。そこで学んだり感じたりしたことを紹介します。
2025年7月29日から31日に行われた事業です。恒久平和について学びその成果を広く市民の方に伝えることを目的として、中学生16人が長崎に派遣されました。原爆落下中心地・平和公園・山里中学校・長崎原爆資料館・浦上天主堂に行き、被爆体験講話も行われました。
平和案内人という原爆が起きた時のことを話してくれるボランティアの方と原爆にゆかりがある場所を巡りました。
原爆落下中心地には、原爆落下中心地碑や原爆殉難者保安がありました。原爆殉難者保安には、原爆によって亡くなった方の名前がマイクロフィルムの中に記録されています。2025年7月29日時点では19万8785人の方が記録されていました。

その近くには、当時の地層が残されているスペースがありました。見たとき、当時の地層は燃えて赤くなっていました。火事などが起こっても土が燃えるということはないと思うので、原爆はとても高温の熱を発したことが分かります。
また、原爆落下中心地付近には原爆によって壊れた浦上天主堂の一部が保管されており、レンガが一部崩れている様子やレンガが黒ずんでいる様子を見ることが出来ます。

平和案内人の方は、原爆を被爆した後に被爆された方が喉が渇いて川で水を飲んだら、安心して亡くなってしまうということがあったと話してくれました。また、その際には川に浮かんで亡くなっている方が多くいたそうです。

また、平和公園内には長崎の鐘や色々な国から寄贈されたオブジェがありました。長崎の鐘は毎月、原爆が落とされた9日に鳴らされています。色々な国から寄贈されたオブジェには当時のソビエトから寄贈されたものもあります。多くの国が原爆をもう繰り返してはならないと思い、寄贈してくれていたのではないかと感じられます。


今、新たに再築された浦上天主堂には原爆によってどうなったか、や原爆を受けてからどのように復興していったかなどが分かるスペースがあります。浦上天主堂は、原爆によって大きな被害を被りました。例えば、浦上天主堂内にあった像の多くが壊れてしまったり、元は白かったのに黒く変色したりしてしまいました。他にも、当時の浦上天主堂のモデルがありました。モデルを見ると、今の浦上天主堂とは色が少し異なることがわかりました。

原爆で壊れてしまったものの一部は、浦上天主堂付近に吹き飛ばされてしまいました。爆風で吹き飛ばされた浦上天主堂の一部は当時のまま保管されています。飛ばされた中には鉄の棒が入った重い柱もあったそうです。ちなみに、吹き飛ばされたものは50トン以上もあるそうです。

また、浦上天主堂内には、2つ鐘がありましたがそのうちの1つが原爆によって壊れてしまいました。しかし、2025年に壊れた片側の鐘が復元し80年ぶりに2つの鐘の音が響きました。
原爆資料館では、実際に原爆によって変形してしまった瓦やガラス瓶などを触ることができました。そこで感じたこと・学んだことを紹介します。
原爆資料館に入ってすぐに、浦上天主堂が壊れた時に生まれたレンガの瓦礫や原爆によって壊れてしまった橋の柱などが置いてありました。当時のレンガは今と比べて、とても重かったので壊れたので、威力が大きかったと分かります。

少し進むと、長崎に落とされた原爆の実物大のモデルがありました。人が2人分くらいの高さで、とても大きいわけではありませんでした。しかし、町に甚大な被害をもたらすとともに多くの人の命を奪ったと考えると、とても恐ろしかったです。また原爆を運んだのはアメリカの人ですが、その人達は原爆による影響を知らずに原爆を運んだそうです。運んだときはなにもなかったのに、後から影響が出てくるなんてとても怖いですね。
他にも溶けて泡立った瓦や、当時の写真・木の板が被爆した時にできた葉っぱの影など、多くのものを見ることが出来ました。木の板が被爆した時にできた葉っぱの影を見た時は、原爆というのはとても大きな力があるということが分かり、とても怖かったです。また、瓦が泡立つくらいの高い温度の熱を受けていてその熱が人間も受けてしまっていると考えると恐ろしいです。

原爆の影響を受けたあまり変形していない瓦を触ったときは、ザラザラとしていて、本来の瓦のツルツルとした感じはありませんでした。
また、原爆が落とされた中で多くの人が犠牲になりましたが、その中にはアメリカの味方である国の兵士の捕虜もいました。つまり、多くの人々を殺すためには少しの犠牲は仕方がないという考えだったのです。なので、命がとても軽く見られていたように感じます。
長崎で被爆を体験したMさんにお話を聞きました。
現在(令和7年)91歳の方で、被爆当時は11歳でした。当時は長崎市大橋町に住んでいて、山里国民学校5年生でした。12人兄弟で、家族20人で暮らしていて、爆心地から1.3km地点で被爆したそうです。
小学校には、1945年(昭和20年)6月以降通っていませんでした。何故なら、一日に何回も空襲のサイレンが鳴って、サイレンが鳴ったら家に帰らないといけなかったからです。
学校には防空壕がありましたが、児童の全員が入れなかったから使えませんでした。家に帰る時、飛行機が飛んで来るかもしれないけれど隠れる場所がないので、とても怖かったそうです。
もし、飛行機が飛んできたら目と耳を押さえて、飛行機が飛んでいくのを待っていたそうです(目と耳を押さえることで目が飛び出したり鼓膜が破れるのを防いでいました)。

Mさんが被爆した時は、モンペや救急バッグ、防災頭巾を持って父親が小屋を建てている山に向かっていたそうです。Mさんのお父さんは、「8月8日に長崎が灰の町になる」
モンペや防災頭巾は、怪我をしないように使ったそうです。小屋の畳の片隅にいて、救急バッグに何が入っているかを見ていたそうです。
そんな時、「ピカー」と白いような黄色い光があってその後すぐに「ドーン」と大きな音が鳴りました。
気がついたときには、Mさんは裸足で外に立っていたそうです。小屋の中にいたのに外に立っていたのです。
Mさんのお母さんは頭を怪我して目が見えなくなってしまいました。弟は血は出ていませんでしたが背骨あたりの皮膚が切れてしまっていました。親戚の子達は裸で遊んでいたため、全身にやけどを負っていました。
痛かったからでしょう、泣き叫んでいたそうです。しかし、薬を持ってきていなかったので何も出来なかったそうです。
山にはサツマイモ畑がありましたが、被爆後その畑には何もなくなっていたり葉っぱもなくなったりしていました。
8月9日の原爆が落ちた後、すぐに飛行機が飛んできたそうです。爆弾などは落としてきませんでしたが隠れる場所がなくて、とても怖かったそうです。夜も飛行機が来て、照明弾や爆弾が落とされて怖くて、寝ることが出来なかったそうです。
8月10日には、山を降りて町を見に行ったそうです。
町は、一面灰になっていて人が焼けたなんともいえない匂いがしたそうです。
人が死んでいるのを初めて見たそうで、とても怖かったそうです。死体がいっぱい転がっていて、木には、葉っぱは無くて幹しかありませんでした。
「なんでこんなに苦しまないといけないのか」と言って、亡くなった方もいたそうです。「子供が真っ黒になって立ったまま亡くなっていたこと」や、原爆によって亡くなった妊婦さんが長い時間放置させたことで遺体が腐ってしまって、「お母さんと赤ちゃんの2つの骨」が出てきたことが、とても印象的だったそうです。
Mさんのご家族には、亡くなってしまったけれど遺骨が手に入っていない方や未だに行方不明の方がいます。お墓の石には名前だけ書いてあり、遺骨は入っていないそうです。
戦争が終わった時は、「終わった。良かった。」と思ったそうです。
翌年の春から学校でバラックを張って授業をしていたそうです。しかし、Mさんの通っていた山里国民学校では授業ができる状況ではなかったので、師範学校で授業をしたそうです。新聞で、1581人いた生徒のうち1500人以上が亡くなったことを知ったそうです。そのときに自分の友達の多くが亡くなったことを知って、戦争はもう起きてほしくないと思ったそうです。
原爆について知らなければ恐ろしさを知らずにもう一度、原爆という恐ろしい兵器を使うことを繰り返してしまう可能性があります。なので、原爆を知って多くの人に伝えて欲しいとおっしゃっていました。