表紙>>簡易版トップ>>目次>>銀河鉄道研究トップ>>ジョバンニの孤独について
項目(クリックするとその考察を見ることができます)
■子供たちとの関わり
■大人たちとの関わり
■旅人たちとの関わり
■カムパネルらとの関わり
■孤独との向き合い方
■子供たちとの関わり
ジョバンニは元々、友達から仲間はずれにされていた孤独な少年である。第四次稿一章の"朝にも午后にも仕事がつらく、学校に出てももうみんなともはきはき遊ばず、カムパネルラともあんまり物を云わないようになった"という言葉から解るように、ジョバンニには毎日過酷な仕事があり、友達と遊ぶ時間がない。また、仕事に疲れてしまうせいで友達との縁も薄くなってしまう。銀河鉄道の夜の冒頭でも、その日はケンタウル祭なのにもかかわらず、ジョバンニは遊ぶ事ができず、活版所で働いたりおっかさんのために牛乳を取ってきてあげたりと忙しく働いている。
■大人たちとの関わり
一生懸命に働くジョバンニに、大人達はひややかな態度をとる。ジョバンニは仕事場でも礼儀正しく振る舞い、決して他人の迷惑になるような事はしているわけではない。(cf.二章の考察)しかし、第四次稿第三章の、”青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、「よう、虫めがね君、お早う。」と云いますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷くわらいました。”という記述からも解るように、ジョバンニは仕事場にも溶け込む事ができない。大人たちがジョバンニ冷たい態度をとるのは、父親が監獄に入っているという悪い噂を町の人が知っているためだと考えられる。(cf.第四章の考察)
■旅人たちとの関わり
大人にも子供にも相手にされないジョバンニは、不在の父親の代わりに姉と二人で、体の悪い母親の面倒を看なければいけないという重圧を持ちながら、いつも孤独であった。しかし、カムパネルラと共に銀河鉄道に乗り、ジョバンニは様々な人と会う。鳥捕り、青年、かおる子・・・・様々な人に会うたびに、それまでは明るくふるまおうをしながらも、"たまらないほど、じぶんもカムパネルラもあわれなような気"がしていたジョバンニが、"もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい"と思うほどの心境の変化が訪れる。そしてほんとうの幸を探そうと決心するのである。(cf.ほんとうの幸について)
■カムパネルラとの関わり
カムパネルラと共に旅をし、孤独ではなくなったジョバンニは、カムパネルラと一緒にどこまでも行きたいと願うようになる。
第4次稿第九章(後)より
"カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。"
"僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。"
"カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。"
これは全てジョバンニのせりふである。カムパネルラに、一緒に行こうと何度も念を押しているのである。しかし、カムパネルラは約束を果たさず、ジョバンニを置いて消えてしまった。また孤独になってしまったジョバンニは、カムパネルラを失った悲しみから、"誰にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだし"たのだ。
■孤独との向き合い方
さて、ここからが第三次稿と第四次稿の違うところである。第三次稿ではその後、
"「おまへはいったい何を泣いてゐるの。ちょっとこっちをごらん。」"
というブルカニロ博士のやさしい声が聞こえ、カムパネルラはもう帰ってこない事を知る。そしてジョバンニは銀河鉄道の仕組みを知り、"「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」"と決意する。そして、"「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」"と、"ジョバンニは力強く云"うのだ。ジョバンニは、元居た世界に戻り、カムパネルラを失った孤独の中にいるが、それは始めの孤独とは違い、悲壮感は無い。ジョバンニは孤独であるが、博士のくれた緑の切符と共に、"ほんとうの幸"という目指すべき目標に向かってまっすぐに突き進んでいくという決意を持ち、孤独ながらも強く生きて行くのである。
しかし、第4次稿の場合は全く違う。ジョバンニは"もとの丘の草の中につかれてねむって"いたのであり、"胸は何だかおかしく熱り頬にはつめたい涙がながれて"いる気持ちを味わう。そしてすぐ、"まだ夕ごはんをたべないで待っているお母さんのことが胸いっぱいに思いだされ"て急いで家に向かう途中、七八人の人がひそひそ話しているのを見て"なぜかさあっと胸が冷たく"なるのだ。そして、カムパネルラが死んだ事を知って"わくわくわくわく足がふるえ"、"もういろいろなことで胸がいっぱいでなんにも云えずに博士の前をはなれて早くお母さんに牛乳を持って行ってお父さんの帰ることを知らせようと思うともう一目散に河原を街の方へ走"って行って物語が終わるのである。ジョバンニは銀河鉄道の夜を通じて精神的に成長し、ほんとうの幸を探そうと決意するが、第三次稿のように、"僕きっとまっすぐに進みます"という、いわば単純な、希望を持った結末とは違う。カムパネルラを失う事によって再び訪れた孤独は、物語の初めとは違う意味で、ジョバンニに重くのしかかるのである。これは第三次稿が書かれてから第四次稿が書かれるまでの間に、"ほんとうの幸"の実現の難しさを悟った賢治の意識の変化により、ジョバンニは"ほんとうの幸を探そう"という結末から、"もういろいろなことで胸がいっぱいでなんにも云えずに"走っていくという結末になったのだと考えられる。 (cf.第三次稿と第四次稿の違い)
また、それに併せ、カムパネルラのモデルとされるとし(cf.ジョバンニとカムパネルラ)を失った賢治の孤独、悲しみが、第三次稿に比べて第四次稿はありありと写し出されている様に思う。
ジョバンニは物語の最後、第三次稿、第四次稿共に、最初の孤独とは違った意味の孤独を感じることになるが、第三次稿では孤独でありながらも未来に向かって希望を持っている。しかし、カムパネルラを失った第四次稿のジョバンニは、最初の孤独に比べより大きい孤独を感じ、一人で"ほんとうの幸"を求めていく事の絶望的な遠さに"もういろいろなことで胸がいっぱいでなんにも云え"なくなるのである。
(cf.ほんとうの幸について)