エコかつ宮古島

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このページは宮古島の歴史についてです。歴史の教科書には載っていない様々な宮古島の歩みが書いてあります。では早速、年表から見ていきましょう。

宮古島の歩み


「千年先の、未来へ。」エコアイランドへの歴史年表

1300年代 鎌倉時代の終盤頃、宮古島の人口が増え集団が生まれる。
1320年~1380年宮古島内の各地で戦が続く。
1500年島内の有力な豪族である仲宗根豊見親が八重山島の赤蜂を討ち取り、後に島内最古となる史跡を建てる。
1594年サトウキビが中国から伝わる。
1622年中国から黒糖製造の事業が伝わる。
1637年人頭税が琉球王国より課せられる。
1647年黒糖を唯一本州に輸出するほど事業が成長する。
1655年農学を勉強した下地親雲上恵根が琉球王国から松を持ち帰る。
1681年下地親雲上恵根が宮古島で本格的に松を植林、島内営林のはしりとなる。
1750年~1850年ほうそう・天然痘が流行ったり、大津波が起こる。
1873年ドイツの商船が宮古島で座礁し島民に助けられる。
1876年ドイツ皇帝から日本政府に返礼があり、記念碑が建てられる。
1903年過酷な人頭税が廃止される。
1971年大干ばつが起こり、農業に甚大な被害を及ぼす。
1988年災害から農業を守るため福里ダムが施工される。
1992年池間大橋が完成する。
1993年自然災害への対策で農業用水を恒常的に確保する砂川ダム完成。
1995年来間大橋が完成する。
1996年ドイツ文化村がオープン。
1998年世界最大の地下ダムと名高い福里ダムが竣工。
2008年エコアイランド宮古島宣言を発表する。
2009年 1月に「環境モデル都市」内閣総理大臣 認定。
2015年全長3540M、無料で渡れる日本最長の伊良部大橋が完成する。
2018年3月エコアイランド宮古島宣言2.0を発表する。
「千年先の、未来へ。」というタイトルを掲げ、宮古島市民とイメージを共有し、新たな島を作り上げていくことを目標にしている。この宣言は、日本中で注目されており、2030年~2050年の間にはゴール(達成される)と言われている。

 終戦直後の生活用具
終戦直後の生活用具、宮古島市総合博物館の取材時撮影

神様を信じて信じて、歴史が変わる

宮古島では、古代より神様を信じています。ようやく人がまとまって住むようになった1300年代でも、エコアイランドになろうと努力している今でも、宮古島の人々は神様を大切にしているのです。宮古島にはたくさんの神様がいるとされていますが、1500年に仲宗根豊見親(なかそね とぅゆみゃ)が建てた漲水御嶽(ぴゃるみずうたき)は、宮古島でとても有名な神社の一つです。中には小さな神様がいると言われており、昔から島の成長を見てきた歴史ある神社として、石碑には数多くの困難に乗り越えてきたこと、多くの人に信じられ崇められてきたことなどがかかれています。石碑を深く考えれば、戦をするのも神様しだい、子供が無事に生まれるかも神様しだい、漁業・農業がうまくいくのかも神様しだい。今でも信仰が続いているということは、実際にそういう事もあったのでしょう。宮古島の歴史は神様の教えを抜きに語ることはできず、神様は歴史上、大きな存在感を示してきたということがわかります。

島の神社
島の神社

宮古島、災害と病気が立て続け! 恐怖の100年

宮古島では今まで、様々な病気が流行り、災害も数多く起きています。特にひどかったのが1750~1850年にかけて。ほうそう・天然痘が流行ったり、大津波が起こったり。ましてや大飢餓まで発生するという100年でした。この100年でなくなった方は5000人超え。当時の人口が約4万人だと推測されるため、約10.25%の方が亡くなったのです。ではなぜ、このような大きな被害をもたらす災害や病気が連続的に起きたのでしょうか。
それはミニ氷河期、それと年表にも書いてある人頭税の影響だと考えられます。
まず、ミニ氷河期。ミニ氷河期とはこの時期に起きた、温度が低くなる現象のことで、地球全体の温度が低くなったといわれていています。この影響で宮古島では干害が起こったり、コレラが流行ったりしました。
次に人頭税について。人頭税とは宮古島に納めなくてはいけない税のことで、一見ただの税に思えますが、世界有数の厳しい税だったと言われています。宮古島には今でも人頭石という石があり、その時の悲惨な歴史を物語るように道の角に立っています。この人頭税によって伝染病が流行った年にも休むことなく働かされた、そのようなことがあったため、治したり、ワクチンを打つ暇もなくたくさんの人が亡くなったのだと思います。
どうしてこの100年に沢山の人が惨い亡くなり方をしたか理解していただけたでしょうか。ただ、この歴史を生んだのも宮古島自身なのです。

どんな人にもおもてなし

宮古島には鎖国中にも数回、鎖国後にも数回海外の船が座礁し、漂着しています。その時、宮古島の人はどのような対応をしていたのでしょうか。当時の宮古島の対応については、1804年にブロートン船長という人が著した、ヨーロッパで出した航海日誌に載っています。内容は「宮古島の人々の素晴らしさ」について。では、宮古島の人は実際にどのようにおもてなしをしていたのでしょか。
航海日誌を書いたブロートン船長の船プロビデンス号を例にあげましょう。プロビデンス号は池間島で座礁し、宮古島に漂着。そして、宮古島の人々は、船員がたくさんいる中、出発するまでとその後使うであろう水、食料、薪をずっと供給し続けたのです。
鎖国中でもこのような親切心を忘れず、おもてなしの心を示したからこそ、海外に受け入れられ、明治時代以降礼儀正しい国として歩んでこれたのではないでしょうか。

宮古島の植林事業

宮古島では、1650年ごろ植林活動を始めました。これは、宮古島のある島民が、沖縄本島から小さな松を数本宮古島に持ち帰り、島に植えたことがきっかけです。さらに、宮古島ではその後、植林活動が活発化し、自然豊かな島として名をはせていくことになります。ですが、1850年以降森が私有地化され、木を売る人が多くなっていきます。ここから木の減少が始まるのです。そして1945年には戦争により、木が燃え、より一層少なくなりました。また、高度経済成長期にも海外にどんどん輸出されていきました。
今、宮古島は島の面積の約16%しか木がなくなってしまい、全国平均を50%以上下回っています。ここから、これからの宮古島には植林活動が必要不可欠になってくると言えるでしょう。

出典:
shinrinsigen
(出典:内閣府 沖縄総合事務局「第8章 森林・林業の振興」

大野山林
大野山林

歴史のまとめ ~今後の課題~

このページを読んで宮古島の歴史に興味を持っていただけたでしょうか。美しいと言われる宮古島はこのような山あり谷ありの歴史を積み重ね、成り立っています。 そして、今後の歴史を作る上での課題もあります。例えば、植林。実践的な案としては、植林活動を広げ、多くの人に植林をしてもらうことが必要になるのではないでしょうか。

宮古島模型全景
資料館の宮古島模型