●日米和親条約

神奈川条約とも言う。1853年6月3日、アメリカよりペリー提督率いる黒船4隻、浦賀に到着した。数日後、海軍音楽隊の演奏とともに、ペリーとその部下が日本の地を踏む。

ペリーは当時のアメリカ大統領フィルモアからの手紙を幕府へ渡し、来年また返事を受けに来日すると約束し、日本を去った。手紙の内容はアメリカと日本との間に関係を築き、日本を開国させることであった。今まで鎖国主義を貫き通した日本だが、この出来事により、200年以上続いていた鎖国体制を終わらせることとなった。

1854年2月13日、ペリーは日本を脅すかのように7隻の戦艦を従えて来日、武装した海軍音楽隊とともに日本へアメリカの技術や軍事力の違いを見せ付ける。幕府は苦々しく条約を飲んだ。

条約の内容を簡単に説明すると日本とアメリカでお互いへの人種の差別をするべからず。漂流した外国人は必ず保護し、日本での滞在を許可すること。日本で下田と箱館の2ヶ所に港を立て、外国船の入港・船旅に必要な物(石炭、水など)を補給できるようにすること。など12条あり、すべてが日本にとって不利だと思われるものではない。また、この条約と後に調印される日米修好通商条約により、日本のアメリカとの貿易が始まる。

この条約が求められていた理由は、日本近海で捕鯨などをする船に品物を補給するための港が近くに欲しかったということと、アメリカ以外にもロシアやイギリスなどもアジア各国に植民地や貿易を行う国を広めていたからだ。アメリカはロシアやイギリスに負けじとアジアでの開国に力を入れることとなった。

 

<日米和親条約><ボーハタン号><批准書交換前後>