なぜ農薬を使うの? : 農薬の誕生
農薬が生まれる前
農薬が生まれる前は、人はどのように農作物を守っていたのでしょうか。
昔は、「祈祷」や「虫追い」、「虫送り」(農家がみんなで太鼓、半鐘、たいまつ等をもち、声を出しながら田んぼのまわりを歩き、稲に付く虫を追い払う)などが行われていました。
初めての農薬
日本で初めて有用な農薬が使われたのは江戸時代と言われています。
1670年から初めての農薬として、鯨油を使った注油法が行われるようになりました。
注油法は、水田に鯨油を撒き、稲に付いている害虫を払い落とす方法で、イネの害虫であるウンカに効果的です。
明治維新後には使われる油が鯨油から石油に変わり、注油法は昭和初期まで続けられていました。
しかし、この方法は効力が弱く、全国的に浸透していなかったので、江戸時代の 間は、「祈祷」が中心に行われていました。
なんで農薬が開発されたの?
日本で農薬の必要性が高まったのは、江戸時代の度重なる凶作による飢饉が原因と言われています。
年号 | 出来事 | 原因 | 被害 |
---|---|---|---|
1641-42 | 寛永の飢饉 | 大雨、洪水、干ばつ、虫害、冷害 | 5-10万人餓死 |
1732 | 享保の飢饉 | ウンカ(稲作害虫) | ~1万人餓死 |
1783 | 天明の飢饉 | 冷害による大凶作 | 東北だけで30万人以上死、米騒動 |
1832-38 | 天保の飢饉 | 冷害による度重なる凶作 | 10万人以上(奥羽)餓死・疫病死、大塩平八郎の乱 |
このような相次ぐ飢饉の中で人々が農作物の安定生産を求めるようになったために農薬の研究が始まりました。
その後、科学技術の発展や海外の技術の流入などにより、農薬は今のような化学的で、さらに有効なものになりました。
(図)水稲作付け面積10a当たりの収穫量
e-Stat 作物統計調査より作成
農薬の進歩を示す例として、1993年の大冷害があげられます。この冷害は、低温・日照不足・台風によって戦後最大の米の不作となりました。
しかしこの冷害がきっかけとなる飢饉は起きませんでした。
これは貿易、情報技術の発達に加え、肥料や農薬などの科学技術が進歩し、農作物の保存期間が伸びたことの結果だと言えるでしょう。
近代以降の農薬
次の表は、明治時代から昭和時代の農薬の使用状況、種類をまとめたものです。
いつ | 状況 |
---|---|
戦前 | 除虫菊、硫酸ニコチンなどを用いた殺虫剤 銅、石灰硫黄などの殺菌剤など天然物由来の農薬 ⇆雑草に対しては手取りによる除草が中心 |
戦後 | 化学合成農薬が登場 →収穫量の増大や農作業の効率化 除草剤の使用 |
1961(昭和36年) | PCPという農薬が雨により海や湖に流れ出す ⇨魚介類の大量死 |
1965-1974(昭和40年代) | 農薬が社会問題になる;毒性が強い、農薬使用中の事故、 作物や土壌への残留性が高い。 |
1971(昭和46年) | 農薬取締法制定 |
農薬が普及していく中で、環境への配慮は顧みられず、残留性の高い物質がつかわれていました。
この、農作物の安全性が脅かされた状況に対して国民の不安感や不信感が高まっていきました。
このようなことがきっかけで、「農薬=毒」というような感覚が市民に根付き始めたと考えられます。
この状況を変えることとなった出来事が、政府が1971年(昭和46年)に制定した農薬取締法です。
この法律は「国民の健康の保護」と「国民の生活環境の保全」を目的としています。
この法律で、農薬のほ乳類に対する急性毒性試験、慢性毒性試験、残留性の試験の結果の提出が義務付けられました。
つまり、農薬取締法の制定によって、農薬の量や種類を法的に制限することが可能になったということです。
そのため、BHC,DDTなど毒性の強い農薬はこの試験に引っかかり、販売禁止・制限対象になりました。
下の表は農薬による中毒事故発生数(単位:人)を表しています。
※平成12年のデータは得られなかったため未記入
(図)農薬による死亡事故
農林水産省「農薬の基礎知識」及び
農林水産省「農薬の使用に伴う事故及び被害の発生状況について」より作成
この表から、1955(昭和30年代)から1964(50年代中期)にかけて、農薬による健康被害の件数が多いことがわかります。
しかし、農薬取締法の制定を境に死亡者数は減少傾向に転じています。