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日本食の歴史
日本食がどのように様式として形成され日本人の食文化に根付いていったのかを時系列でまとめていきます。

はじめに
 世界の各地での主食は米や麦やイモなど様々です。なぜ日本食は米を主食としており、米が歴史的にどのようにして日本食の文化に入ってきたのか見ていく必要があります。  西アジア、ヨーロッパ、中央アジアなどでは小麦が主食になりましたが、東アジア、東南アジアなどでは米作が根付きました。これには気候などの要因が深くかかわっていて、比較的温暖で且つ降水量の多い東アジア、東南アジアでは小麦に比べ育てるのに水を多く要する米が適しています。  歴史的に見て、主食が麦から米に移ることはあっても、米から麦に移る民族はあまり見られません。また、人体に必須なアミノ酸の量を表す指標であるアミノ酸スコアが小麦に比べ米が高いということもあり小麦はほかに肉などからアミノ酸を補わなければならず、栄養価的にも米が優れていました。このことからも、日本の主食として米は適していたといえます。  

それでは、いよいよ日本国内の話に移ります。

縄文時代
 この頃、日本ではまだ農耕自体発達しておらず、狩猟、漁猟、食物採集の文化でした。縄文人たちは採集した食物を食べ、余ったものは穴や屋根裏に貯蔵して、必要に応じて取り出しました。貯蔵されていた食物は、クルミ、クリ、トチ、ドングリなどの堅果類が中心でした。このことから、縄文人の主食はこれら堅果類であったと推測されます。また、弓矢でシカやイノシシを狩ったり、魚を捕まえたりしてタンパク質を補っていました。





弥生時代

縄文時代後半から弥生時代に入り、日本に稲作が伝来しました。どのように伝来したのかには諸説あり、中国から直接伝来したのか朝鮮半島を経由したのかなど詳しいことは分かっていません。現在は米のDNAを分析することによって経路を特定しようとする試みがなされています。
 稲作が日本全土(寒冷地を除く)に広がり、農耕生活がスタートすることによって、日本人は狩猟採集生活と比べて安定した食料供給を行えるようになりました。同時に定住生活が可能になり、人口もぞ増加しました。遺跡を調べることにより、米だけではなく、粟や稗、小豆などの穀物も栽培されていたことがわかっています。これらの穀物は炊いて雑炊のようなかたちで食べられていました。







奈良時代
 米がこのころには広まりきっていて、中央集権国家で米を税として貴族階級が徴収するため、貴族階級は米食であったのに対し、庶民は食べるための米はほとんどなく、粟や稗などの雑穀を主食としていました。つまりこのころから貴族食と庶民食の区別がされてきたということになります。また貴族の間ではこのころ仏教がはやり、また675年の天武天皇の殺生・肉食禁止令もあり、貴族からは肉が消えてその代わりに高級な乳製品である蘇が補われたりしました。この風潮が平安時代ごろに発展し始める精進料理の原型になりました。





平安時代
  平安時代は現代における日本食の基礎が出来上がった時代です。  平安時代の貴族の生活は、地方の庶民の多大な犠牲の上に築かれたものであったので、貴族階級と庶民階級との生活の落差は奈良時代よりも顕著となっていました。貴族の食膳は調味や栄養よりも、盛り合わせの美をより尊重する、見る料理を育成することになりました。この形式的食生活は、日本食の性格を後世にまで規制する源泉ともなりました。  一方で奈良時代から上層階級で用いられてきた牛乳や乳製品はますます多く用いられましたが、貴族階級の衰退や宮廷の財政難、度々の戦乱と武家勢力の台頭などにより、入手は少なくなって、肉食を禁止していたことも相まって体格の発達を著しく阻害する結果となりました。  庶民はまだ仏教の戒律は浸透しておらず、動物を捕らえて食べていました。しかし生活は貴族とは格段の差で低いものであったため、前時代と大きくは変わりませんでした。貴族食の中でも特に儀式や接待用の食膳は「盛饌」と呼ばれ、その形式は日常の食膳にも及んでいったと言われています。栄養や味覚よりも、食品をいかに美しく盛り合わせるか美の工夫がされ、見た目の美しさを大切にする日本料理の性格が貴族生活の中から生まれました。





鎌倉時代・室町時代
 平安時代の貴族、僧侶といった上流階級は形式的な食事を重視し、仏教の影響を受けて肉食を禁止した結果、食品の種類はかたより不健康な食風でした。
武家の世となると玄米食と獣肉を自由に食す風潮が広がります。平家の衰亡を教訓として質素倹約に努め、栄養価の高い食生活で“もののふ”の活動エネルギーを蓄えたのです。平安時代と比べると簡素な食風ですが実際的で健康な食生活に変化していきました。
武士の棟梁は地方貴族でしたが、大半の武士は農民の出身で戦時は武器を持って闘いますが、平時は土着して土地を耕作する食糧の直接的な生産者だったのです。
彼らは狩りによって得た獣肉はそのまま彼等の食料としていたので、貴族が嫌がろうとも気に止めず、洛中の寺院の境内で公然と肉食の宴を開いたりしたそうです。
新仏教や禅宗も登場し、次第に貴族や僧侶の方が武士に感化されていき、獣肉を食すことは禁忌ではなくなってしまいました。



 


安土桃山時代
  外来した食物
西瓜、南瓜、玉葱、唐辛子、甘藷、ジャガイモ、トマト、ほうれん草、葡萄、南京豆、イチジク、バナナ
ジャガイモはジャガルタ=ジャガタラを経由したことからジャガタライモと呼ばれていました。 甘藷は既に琉球で栽培されていた物が薩摩に入った。薩摩では琉球芋と呼ばれ、その他の地域では薩摩芋と呼ばれていた。

 外来した料理法
油で揚げる=天ぷら、がんもどき
砂糖を使う南蛮菓子=カステラ、ボーロ、金平糖

 新たな食事形式
茶の湯の流行に伴い、懐石料理が登場する。懐石とは僧侶が空腹を紛らわせるために懐に暖めた石をいれたことから来る名前で、茶を楽しむ前に空腹を和らげるために出される食事。茶をもてなす主の趣味趣向が反映される。

それまでは、貴族の伝統を継承した本膳料理が武家の正式な食事だった。複数の御膳に数多くの料理を決まった位置に置き、食べ方も手順が決まっている形式張ったものだったらしい。これに対し禅の思想が入った懐石は、質素で形式張らず洗練されたものとなって行きます。


江戸時代
 まず、国内に平穏が続き、農業と漁業が大発展します。新田開発や品種改良、新しい漁場や漁法の開発が時代を通して行われてゆきます。収穫量の増大は、都市部人口の増大と共に市場の拡大を促し、魅力的な料理となってゆきます。

江戸時代になって本格的に醤油が使われるようになります。それまで調味料と言えば、塩、味噌、酢でした。 また、砂糖、昆布、鰹節が現れます。多くが専門メーカーによって作られ市場に流通して行きます。

 大多数の農民や下層町民は何を食べていたか?
農作物が増産されても、農民が常に米を食べていた訳ではありません。地域によって大きな差がありますが、普段食べていたのは米半分、雑穀半分でした。これに菜を混ぜ込み、一緒に炊いて食べることが多かったようです。 都市部では流通しているのが米であり、庶民も基本は米を食べていたようです。 ちなみに、屯食と呼ばれた携帯食が、おにぎりと呼ばれて一般的になるのが江戸時代です。





明治時代
【明治初期】
 西洋料理が移入され、上流階級と知識人を中心に浸透、されには和洋折衷である洋食が生まれました。 しかし、洋食の普及は上流階級や都市部に限られ、庶民の日常の食事は和食が大半であり、特に農村部や貧困層の食生活においては、その影響を与えていないような時代でした。

  洋食は江戸時代に長崎で行われていたが、幕末になると洋食に接する機会が増えました。明治維新前後になると、洋食は開花の食事として上流階級・知識人を中心に、食べる人々が多くなりました。まだ洋食の味がわからない時代でもあり、福沢諭吉は、西洋料理を奇異に感じながらも、作法について紹介したりしています。

  西洋文明は優れているという見なされる風潮の中、滋養目的で、明治天皇が肉を食したことが、大衆に大きな影響を及ぼしました。また牛肉食は文明開化の象徴とされ、牛肉を食べないものは文明人でないというような風潮から、肉食は、まずは牛肉食としてそのまま取り入れられが、やがて日本古来の調理法を応用し、牛鍋、いわゆる「すき焼き」としてアレンジされ、流行しました。

  但し、日本の家庭においては、座式の生活様式をとっていたため、西洋の食事習慣をそのまま取り入れるのは不可能なこと、食材が高価なこと、日常食とはあまりにも違いすぎていることより、普及はしなかったのです。

【明治中期 上中流階級への西洋料理の浸透】
西洋料理の調理技術が日本的に再編成され、フライ・油料理・牛豚料理など、西洋風の新しい作り方を紹介する雑誌も登場し、料理雑誌の紙面の過半を占めるようになりました。但し、実際に西洋料理を作る家庭はほとんどありませんでした。   西洋料理が、上流階級や知識人により公的な場を中心にして普及していくが、その原因として、明治30年刊の「等級繁昌記」には、次のように理由を挙げています。

1.西洋料理の長所は簡易であること。

2.日本料理は酒(日本酒)を好まない人には、宴会などでも手持ちぶたさを感じるが、西洋料理は酒の種類も多く、飲みたい酒が飲める。

3.好きな料理くれば、食べ、好まないものは食べなくてよい。

4.献酬や給仕しなくてもすみ、芸妓などを招く必要もなく、会食ができる。


【明治後期】
本格的な西洋料理に変わり、和洋折衷料理としての洋食が台頭してきます。 洋食は、米飯に適したおかずとして、また気楽な西洋料理として、箸で食べることができ、栄養的にも優れているという点で、普及し始めます。 また、調味料として、ソースが香辛料と共に盛んに使用されるようになりました。 但し、普段の家庭での食事メニューは、和食が中心であり、たまに洋食を作り食べる程度でした。


大正・昭和
 家庭料理の中にも洋食が少しずつ浸透し始めますが、家庭の料理というよりは外食としての洋食がより庶民に浸透していきます。都市化が進む中で大衆食堂を中心に全国に洋食が普及していきました。  第二次世界大戦が起こり日本本土がかなりのダメージを受けたため、国民へ食糧も十分に供給されず当時の人の栄養状態は最悪でした。終戦後のアメリカの支援による復興支援(≒アメリカ市場への組込み)の下、そして高度経済成長を経て貧困からの脱出を図っていった日本において、庶民の日常の食生活にまで欧米の影響が浸透していきました。   食料難を乗り越え、食生活に一定落ち着き、洗濯機、冷蔵庫、テレビといったいわゆる三種の神器がもてはやされ、食以外のものにも目が向き出した時代、食の世界にもその波が、押し寄せてきました。1955年に販売され始めた「自動式電気釜」の登場したのです。スイッチ一つで、炊き上がるこの機械は、大いに売れました。






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