【明治初期】
西洋料理が移入され、上流階級と知識人を中心に浸透、されには和洋折衷である洋食が生まれました。
しかし、洋食の普及は上流階級や都市部に限られ、庶民の日常の食事は和食が大半であり、特に農村部や貧困層の食生活においては、その影響を与えていないような時代でした。
洋食は江戸時代に長崎で行われていたが、幕末になると洋食に接する機会が増えました。明治維新前後になると、洋食は開花の食事として上流階級・知識人を中心に、食べる人々が多くなりました。まだ洋食の味がわからない時代でもあり、福沢諭吉は、西洋料理を奇異に感じながらも、作法について紹介したりしています。
西洋文明は優れているという見なされる風潮の中、滋養目的で、明治天皇が肉を食したことが、大衆に大きな影響を及ぼしました。また牛肉食は文明開化の象徴とされ、牛肉を食べないものは文明人でないというような風潮から、肉食は、まずは牛肉食としてそのまま取り入れられが、やがて日本古来の調理法を応用し、牛鍋、いわゆる「すき焼き」としてアレンジされ、流行しました。
但し、日本の家庭においては、座式の生活様式をとっていたため、西洋の食事習慣をそのまま取り入れるのは不可能なこと、食材が高価なこと、日常食とはあまりにも違いすぎていることより、普及はしなかったのです。
【明治中期 上中流階級への西洋料理の浸透】
西洋料理の調理技術が日本的に再編成され、フライ・油料理・牛豚料理など、西洋風の新しい作り方を紹介する雑誌も登場し、料理雑誌の紙面の過半を占めるようになりました。但し、実際に西洋料理を作る家庭はほとんどありませんでした。
西洋料理が、上流階級や知識人により公的な場を中心にして普及していくが、その原因として、明治30年刊の「等級繁昌記」には、次のように理由を挙げています。
1.西洋料理の長所は簡易であること。
2.日本料理は酒(日本酒)を好まない人には、宴会などでも手持ちぶたさを感じるが、西洋料理は酒の種類も多く、飲みたい酒が飲める。
3.好きな料理くれば、食べ、好まないものは食べなくてよい。
4.献酬や給仕しなくてもすみ、芸妓などを招く必要もなく、会食ができる。
【明治後期】
本格的な西洋料理に変わり、和洋折衷料理としての洋食が台頭してきます。
洋食は、米飯に適したおかずとして、また気楽な西洋料理として、箸で食べることができ、栄養的にも優れているという点で、普及し始めます。
また、調味料として、ソースが香辛料と共に盛んに使用されるようになりました。
但し、普段の家庭での食事メニューは、和食が中心であり、たまに洋食を作り食べる程度でした。