日本語

岸和田城

現在の岸和田城

画像 画像
岸和田高校の前に聳え立つ岸和田城。
三層の天守で、内部は岸和田城に関する資料などが展示しています。
しかし、この天守は再建されたもので、昔は五層の天守でした。

岸和田市について

岸和田城についての説明の前に、まずは岸和田城が建つ岸和田市を簡単に紹介します。

・岸和田市のあれこれ

  • 立地:大阪府南西部
  • 総面積:72.55平方km
  • 人口:199214万人(2015年)
  • 海抜:0.0m~865.7m
  • 山:和泉葛城山、牛滝山、神於山
  • 河川:牛滝川、春木川、津田川
  • 池:久米田池
  • ・岸和田の工業

    江戸時代より綿花の栽培が盛んで、それらの加工も含めた繊維工業が中心だったが、 海外からの輸入が増加するにつれて多くの工場が消えていった。 1966年、沿岸部を埋め立て大阪鉄金属団地を建設、 同年に隣接する忠岡市に跨って大阪木材コンビナートも建設された。 他にはガラス、レンズの産業が有名で、特に顕微鏡用のカバーガラスは 一時期国内シェアの9割以上を占めていた。

    ・岸和田の農業

    稲作の他、タマネギ、水ナス、タケノコ、みかんなどの栽培が盛ん。 また、包近町は府内では最大の桃の産地である。 近年では特にタマネギの栽培が盛んだったが、住宅地の開発が急速に進んだことで 多くの農家は廃業、畑も減ってきている。

    ・岸和田だんじり祭

    1703年より300年以上も続く岸和田だんじり祭は 現在も岸和田市民の多くが参加する大規模な祭りである。 起源は豊穣を祈っての祭りである稲荷祭で、当時の岸和田藩主岡部長泰によるもの。 綱を握った曳き手たちが走り、スピードに乗っただんじり(地車)を方向転換させる 「やりまわし」は最大の見所で、多くの観光客を集めている。 全国的な知名度も高く、祭が開催される2日間で毎年60万人以上の観光客が訪れる。 岸和田市民にとっても1年を通して最も盛り上がる2日間であり、 岸和田市民はだんじりのために生きているとまで言われるほどである。 また、祭の様子は市内のケーブルテレビ局である岸和田テレビによって毎年放送されている。

    岸和田城の歴史

    建築の歴史

    まずは簡単な略年表からご覧ください。
    岸和田城の略年表
    西暦 主な出来事
    1334年 摂河泉守護楠正成の代官和田高家が、照日山付近に城を築く
    1382年 現在地に築城
    1827年 落雷によって天守閣が焼失
    1954年 岸和田城天守閣再建
    1992年 岸和田城平成の大改修
    と、まあこの表は本当に簡単なものなので建築関係の特に大事な出来事だけを抜粋しています。

    より詳しく書くと以下のようになります。 建武元年(1334年)前後に、 和田高家が現在の岸和田城跡から約500m東に最初の岸和田城を築城しました。 当時は「岸の城」とも言われました。 その後信濃泰義によって現在地に移築されたとされています。 羽柴秀吉の紀州征伐の拠点として再築城され、 その急ごしらえで造られていたものを、 小出秀政が5重天守を上げる本格的な構えとしました。 松平康重の代に総構えと城下が整備され、岡部宣勝の頃、 城の東側に2重、西側に1重の外堀と寺町が増築されました。 文政10年(1827年)に天守を焼失。 以降100年以上再建されないまま、明治4年(1871年)に廃城とされ、 まもなく破却されました。 岸和田城は猪伏山と呼ばれた小高い丘の上にあり、 本丸と二の丸を合せた形が、機の縦糸を巻く器具「縢」(ちきり)に 似ていることから蟄亀利城(後に千亀利城)と呼ばれるようになりました。 また、城内にある岸城神社は千亀利と「契り」とをかけて、 縁結びの神社として知られています。

    藩主の歴史

    岸和田は"天下の台所"大阪に近く、 大阪湾岸の南の防衛線として非常に重要な土地でした。 岡部宣勝が岸和田城藩主に任命されたのは 紀州藩の動向を監視するためとも伝えられていますが 岸和田城の城構えからみると、むしろ大阪側の守備に 重点をおいていたことがうかがえます。 尾崎藩とともに岸和田藩は大阪防衛の役目を担っており、 参勤交代でも岸和田藩主と尾崎藩主がともに 国元に不在とならないように配慮されていました。

    日本の城の天守閣

    そもそも城とはどのような建物なのでしょうか。
    城とは、館や天守閣のまわりに柵や堀などが作られた建造物を指します。
    古代につくられた環濠集落から近世の城までさまざまなものが含まれますが、
    ここでは中世以降、主に武士などの支配階級によって建てられたものを中心に紹介します。

    ~中世~

    平安・鎌倉時代
    武家の居住区の防護と、戦時に山に拠るときの防護としてバリケードとしての城郭を作ったことが始まりとされています。

    戦国時代
    戦国時代初期は、山城と呼ばれる、山上に城郭、麓に下館(居城)のあるものが多く造られました。
    山上の建物は主に防御施設であって、日常生活は麓の館でおこなっていたようです。
    中期からは、平地に臨む丘陵に築かれた平山城、平地に築かれた平城が主流となりました。
    防御面は優れていますが、政治支配の拠点として不向きだった山城に替わり代表的な城となっていきました。

    ~近世~

    室町・安土桃山・江戸時代
    このころから、重層な天守や櫓、城門に代表される、現在見られるような「日本の城」が造られるようになりました。
    見た目も重視されるようになり、大名たちの権威の象徴もあらわされています。
    江戸時代になると、軍事拠点としてよりも、政治を執り行う建物としての意味合いが強くなります。
    このサイトで扱う城もこの時代のものです。

    以上よりも分かる通り「城」とは、天守閣のほかに櫓や城門、枡形(虎口という城の出入り口の防御施設)、
    御殿(城主の居館)、蔵、石垣、堀など多くの建造物のすべてを指します。

    天守

    続いて、城の一部であり、中心となる天守について詳しく紹介します。
    天守は一城の象徴的存在であり、軍事施設ではあるが多大な金、材料、人を費やして造られることも多く、城主の権威を誇示する目的が多く含まれます。
    住居として使われた安土城、大阪城などの例は別として、ほとんどの天守は居住空間としては使われませんでした。
    城主は二の丸などに建てられた御殿で生活や政務を行い、天守は物置などとして使われることが多かったようです。

    今回3Dモデルするのも昔の岸和田城の「天守閣」です。

    本来の姿

    昔の岸和田城の天守閣の3Dモデルを作成するためには、その天守閣に関する資料が必要です。

    しかし、「岸コレ」をはじめとしてさまざまな資料を調べても、
    岸和田城天守閣そのものに関するはっきりとした記述や絵はほとんど見つけることはできませんでした。
    (画像は岸和田高校にある資料のひとつ。天守の絵から五層の天守であることはわかるが、細部まではわかりません。)
    画像

    3Dモデルの作成で主に参考にした昔の岸和田城に関する資料など

    ・現在の岸和田城:城内の資料館。また、昔の岸和田城天守閣の不明なところは現在のものも参考にしている。
    ・岸コレ:昔の岸和田城の天守の絵。
    ・「岸和田城いまむかし」:岸和田城でもらったパンフレット。絵に加えて、天守の高さや天守台の大きさが書かれている。
    ・「
    歴史とだんじりの町のシンボル『岸和田城』」(外部サイトへ):現在の岸和田城の再建に関してのwebサイト。現在の岸和田城の建設の過程や図面を見ることができる。

    クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
    岸和田城再建プロジェクトクリエイティブ・コモンズ 表示 - 非営利 - 改変禁止 4.0 国際 ライセンスの下で提供されています。