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11、檸檬爆弾ー@
「丸善」に入り、再び憂鬱な気分になってしまった「私」は
ある事を思いつきます。
画本を積み上げ、その上に檸檬を置くということです。
そうすることによって「私」は憂鬱が解消されるように思うのですが
では何故「私」はそうすることによって
憂鬱が解消される様に思われたのでしょうか?
そしてそれは「私」にとってどのような意味をもつことになったのでしょうか?
8でふれたように「私」にとって檸檬は
善や美の象徴のような役割を持っています。
そして檸檬は「不吉な塊」を緩めてくれる存在でした。
ですから「私」は「丸善」のなかに漂う憂鬱を
やっつけてくれると考えたのです。
そうして「私」は画本を積み重ね始めます。
その工程での「私」の心には
「先ほどの軽やかな昂奮が帰って」きます。
憂鬱に押さえつけられていた心は
「軽く跳りあがる」ほどまで回復します。
その積み重ねた画本の上に檸檬を据えてみると、
「その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調を
ひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、
カーンと冴えかえっていた。」のです。
檸檬が吸収した雑多な色の階調は、
いうまでもなく「丸善」の憂鬱を象徴し、
「私」の憂鬱の実態である「書籍、学生、勘定台」を
檸檬が見事に吸収してしまったのでした。
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12,檸檬爆弾ーA
そして「私」はまたある事を思いつきます。
「それをそのままにしておいて私は、
なに喰わぬ顔をして外へ出る。」
この考えに「私」自身も「ぎょっと」します。
これは でふれた心の不思議さに通じています。
それから「私」は「変にくすぐったい気持ち」になります。
これはいろいろな事が考えられますが、誰も知らない企みを
自分自身が実行しようとしていることへの
心が躍るような気持ちがあります。
では「私」が想像の中で「丸善」を爆破する事には
どのような気持ちがこめられているのでしょうか?
重苦しく、気詰まりな場所としての「丸善」には
現実の「居たたま」れなさの象徴になっています。
その「丸善」を爆破したいという思いには、
気詰まりで重苦しい現実から逃げ出したいという
強い願望がこめられているのです。
しかし、最後の一文のように「活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極」を下らなければならないのです。
だからこそ空想のなかで自分を遊ばせる事に熱心になリます。 そうならざるを得ないのです(それ以外に「私」を救う方法もない→6)
そして8のように檸檬は「不吉な塊」に対抗できる唯一のものです だからこそ檸檬を現実を破壊する力を持つ「爆弾」に見たてたのです。
檸檬の役割の変化→クリック
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