徳川家康によって開かれた江戸幕府は三百年間の長きにわたり、外国との交渉を避け、厳しい封建社会を築きあげました。
この時代の大きな特徴は、庶民階級が経済的社会的勢力を獲得したことで、厳しい身分制度の最下層におかれた町人たちが富を得、力をつけて、文化の担い手となりのびやかな庶民文化の花を咲かせたのです。 したがってこの時代にあらわれた服装は彼ら町人の財力と趣味とを十分に生かしたもので、加えて大名、旗本などの武家階級の経済逼迫にともない、武家をしのぐほどの豪華な町民服飾があらわれるようになりました。


武家の服飾について少し触れてみると、礼服には将軍以下、儀式の軽重にしたがって、束帯(そくたい)、衣冠(いかん)、直垂(ひたたれ)、狩衣(かりぎぬ )、大紋(だいもん)などをそれぞれ着用しました。中礼服は長裃(ながかみしも)と裃(かみしも)で、ともに麻製であり、他に継裃(つぎがみしも)や冬期には裏付裃(うらつきがみしも)もあらわれています。また後には麻以外にも竜門、琥珀、芭蕉布、絽などが用いられました。裃の模様には小紋が多く、現代のみなもとです。
女子の礼装はごくまれに公家風の十二単や袿袴(けいこ)が用いられましたが、一般 には打掛と腰巻姿でした。打掛は秋から春にかけて用いるもので、腰巻姿は盛夏の服装です。

 

[小袖の完成]

応仁の乱から桃山時代を経てきた小袖、すなわち初期小袖が次第に形を変化させ、身幅と袖幅の割合もほぼ同様になり、振りのついた小袖(振袖)もでき、元禄時代には現在の着物とほとんど変わらない形態となりました。ここで、小袖の一応の完成をみることになります。
そしてこの小袖に友禅染めをはじめとする染め模様や、縫い模様が色取りをそえてきました。しかしまぼろしの染めといわれ、桃山時代を中心に我が国の染め模様のうちでも幽玄でかつ格調だかい美しさを持った辻が花染めは、江戸初期において全
く姿を消してしまいます。
また小袖模様の構成も、当時の模様表現の技術、社会情勢、美意識と関連をもちながら変化していきました。

江戸初期には、桃山時代からの継続である慶長模様が主で、刺しゅうと摺箔による総模様の小袖が絢爛を競ったのです。地無模様 ともわれます。寛文に入ると、町人服飾はとりわけ贅沢になりました。この頃にはたびたび奢侈 (しゃし)禁止令がだされ、手間のかかる贅沢な匹田絞りなどが禁止されています。寛文模様といわれるものは一方の肩から斜めの曲線で区切って模様を配してあります。

江戸中期には元禄模様が流行しました。模様は肩と裾というように二段、三段に置かれるようになり、地あきの部分が多くなっていきました。

さらには江戸後期の褄模様や裾模様へと移っていきますが、この傾向は装飾性を強めてきた帯との調和を保つためでもあったようです。

 

[友禅染め]

江戸中期には友禅染めが完成されました。すなわち、多彩 な絵模様を染めによって、自由に表すことの技法が発明されたのです。これによって、小袖模様は一段と絵画的となりました。またこれに、従来からの絞り、刺しゅう、摺箔を加えたものまで現れました。

一方帯の発達はめざましいもので、江戸中期、帯の幅も長さも増して豪華になり、結び方もそれまで単に結びきっていたものが、長くなった分で、多種多様の帯結びができるようになりました。これは当時旺盛をきわめた歌舞伎役者たちの影響によるものです。そして文化十四年にはお太鼓結びと帯締めが生まれ、続いて、帯揚げも使われるようになり、小袖の完成に加えて、現在のきもののもととなる服飾が揃ったことになります。

写 真・図

江戸前期小袖姿
長直垂をつけた大名
狩衣、指貫をつけた四位 の武家
大紋長袴をつけた大名
肩衣長袴をつけた通 常礼装の高級武家
冬の束帯をつけた文官
紙子羽織を着た町人
町家の若嫁

 

 

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