直接中国と交流するようになり、仏教興隆はもとより、制度、文化、すべてに渡って中国の模倣をするようになり、支配者階級の服装も中国のものをそのまま取り入れたものであったようです。この模倣文化は奈良時代も続きました。
女性は両袖の長い短衣(たんぎぬ)でこれに裳(も)を一、ニ枚はいていました。その上に背子(せし)というベストのようなものをまとい肩には比礼(ひれ)というスカーフのようなものをかけていた。
男性は頭に冠をかぶり、つめ襟式の盤領(あげくび)の長い方を着て腰は革帯をしめ、下袴(したばかま)をはいていた。またこの時代、染色の歴史上有名な天平の三纈(さんけち)といわれるろう纈(ろうけつ染)、纐纈(絞り染め)、きょう纈(
板締め)が行われています。