江戸末期には封建体制も衰退の道をたどりはじめます。この騒然とした社会情勢の中で、服飾界も華美なものは姿を消し、着物の色柄も地味なものとなって明治時代へと移行していきます。 明治の御一新によって、いわゆる文明開化がおこります。服飾の面では、まず公式の服を洋風にすることが行われ、礼服が洋服に変わりました。したがって、外に仕事を持っていた男性のほうが洋服化は早かったのです。


当時の洋服と言うと、鹿鳴館を舞台にした華やかな女性たちの服装が思い描かれますが、社会全体からみた場合、それはほんの一部の上流階級の人々にすぎませんでした。
一般の人々にとっては、欧米文化をうけいれきれない根強い生活様式や服飾もあって、和洋折衷という奇妙な風俗も初期にはみられました。紋付き羽織袴で山高帽子にこうもり傘をもち、靴をはいた男性の姿はその典型といえるでしょう。


この時代の代表的な風俗をあげてみると、黄八丈に黒繻子(くろしゅし)の衿、矢絣(やほう)や井桁絣の銘仙のきもの、丈の長い縞の羽織り、大島の二枚重ねや棒縞のお召縮緬に羽二重の昼夜帯、また御高祖頭巾と被布姿は幕末から明治かけての外出姿でした。女学生姿も特徴があって、えび茶の袴、黒の編み上げ靴、頭に大きなリボン、本を抱えて自転車に乗った姿はいかにも新時代にふさわしい清新さがみら れます。このときの袴はまちのないあんどん袴で、きものの裾の乱れをかくすものとして登場しました。和服の非活動性にしだいに改良が加えられていったものです。


これまで続いてきた小袖の流れがこの時代、開国のよる洋服と合流し、初期には溶け合わず不自然さをみせながらも、やがて融合していったのが明治の服飾の特徴ともいえます。


この時代の帯の特徴は胸高であることで、極端なまでに高く締められました。黒繻子の帯をたて矢の字に結んだ姿など、当時の代表的なものです。帯揚げの役目が実用から服飾へと変わったのも明治十年代からのことです。
男性の服装では縞のきものに博多帯、紺股引、前垂れがけの商人や、腹掛け、半天、はっぴ姿の職人なそがこの時代をよく表しています。


次に礼服の改廃をみると明治五年十一月の太政官布告書により旧幣一新の名のもとに中古以来の礼服である束帯、衣冠、直垂、狩衣、裃(かみしも)のすべてが廃止され、明治十七年には大礼服、通 常礼服(燕尾服)、通常服(フロックコート)が勅奏任両官の服制として決定されました。女子の服装は少し遅れて、明治十九年に女官に洋服の制が採用され、大礼服、中礼服、通 常礼服の洋式礼装の基礎が定まりました。唐衣、裳以下袿袴の装束は即位 大礼の場合以外は、祭儀にのみ用いられました。しかし、官吏でも判任官以下は黒縮緬の三枚重ねの総模様、または江戸褄模様に丸帯を最上とし、男子は黒羽二重五つ紋付きの羽織に仙台平の縞の袴を最上としました。


一方、染色界では科学染料をつかうようになり型友禅が誕生し、ジャカード機の普及によって大量 生産も行われるようになりました。明治後期になるとセルやモスリンが和装生地として大量 に用いられました。模様も初期の地味な縞物から、次第に華やかさを取り戻し、洋風化に逆行するかのように復古調のブームが起こり、元禄模様がもてはやされました。


このようにきものの材質、模様は時代環境を反映してきましたが、形態というものはほとんど変化していません。そして機能の面 は洋服にゆずって、日常着としてのきものが次第に姿を消していくことになります。

 

 

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