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ドメニコ・ギルランダイオ
(Domenico Ghirlandaio)(1449年 - 1494年)

 ギルランダイオは、1449年、金銀細工師の子供としてフィレンツェに生まれた画家です。小さい頃はこの時代の偉大な画家達と同じように、父親のもとで金銀細工を勉強しました。
 ギルランダイオが、画家として最初に注目を集めるきっかけになったのは、サンタ・クローチェ教会の壁画でした。初期の作品の一つであるオニサンティ聖堂内のヴェスプッチ礼拝堂の壁画『慈愛の聖母』などからは、ドメニコ・ヴェネツィアーノやアンドレア・カスターニョなどの画家達の影響が見られます。
 1473年〜1475年にかけては、サン・ジミニャーノ大聖堂のサンタ・フィーナ礼拝堂に『聖女フィーナの物語』を描きました。他にもローマのヴァチカン図書館で壁画制作をするなど、実力を認められ、次々に作品を制作していきます。
 オニサンティ聖堂には、ボッティチェリの『書斎の聖アウグスティヌス』との競作で『書斎の聖ヒエロニムス』を描きます。これらの両作品は、現在同聖堂内で向かい合って展示されており、二人の画家の特徴を比較することができます。この作品から、ギルランダイオの才能が確かなものといえます。
 その後、ローマ法皇シクストゥス4世の命令でヴァチカン・システィーナ礼拝堂の両壁の窓の下に壁画を描きます。
 1482年、フィレンツェに戻ったギルランダイオは、フィレンツェ政庁(今のウフィッツィ美術館)からの依頼でヴェッキオ宮殿の百合の間を飾りつけました。また、サンタ・トリニタ聖堂内サセッティ礼拝堂の『聖フランチェスコの生涯』の壁画や『キリスト降誕』の祭壇画、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の連作壁画、捨て子養育院の『東方三博士の礼拝』など、休む間もなく壁画や絵画を制作しました。
 ギルランダイオは1494年にペストによって亡くなりました。遺体はサンタ・マリア・ノヴェッラ教会に埋葬されています。

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