このページはお米の歴史について紹介しています。
お米が誕生した場所というのはまだ詳しく分かっておらず、紀元前のメソポタミアとも東南アジアとも言われています。
現在も研究は続けられているそうです。
日本にお米が伝えられたのは弥生時代(紀元前 300年ごろ)で朝鮮半島から北九州に伝わり、そこから日本中に広まっていきました。
653年に「全ての水田を国有化し、人々にお米を作らせて税として徴収する」、班田収受の法というものが定められ、日本人にとってお米は欠かせないものにっていきました。
奈良時代になってくると人々の間に鉄製農具が普及したほか、現在のスタイルである田植えや牛馬を使った栽培方法もこの頃から始まりました。
奈良時代には農民を支配していた国司などが種もみを無理矢理貸し付けて高い利子で取り立てるという事件が発生しました。
当時の農民は取り立ての厳しさのあまり逃げ出す人もいたそうです。
743年に墾田永年私財法という「自分で開墾した土地は自分のものにしていい」という法律が出されました。
これを受けて有力な貴族などが農民を集めてどんどん開墾して荘園というものを形成し、力をつけていきました。
室町時代になると鉄農具が更に充実してきました。
また、この頃から灰などを肥料として使ったり、水車を使って水を確保したりなどの近代的な方法が実用化され始めました。
ちなみにお米の品種が増え始めたのもこの頃です。
豊臣秀吉の時代に農民から均一に税を取り立てるために行われた検地です。
江戸時代の酒造は「播州の良米」「六甲水系の水車水」「六甲の寒風」での低温発酵などの好条件のおかげで非常によいお酒ができました。
江戸時代には農民の中にも貧富の差があらわれてきました。
このころ、収穫の50%ちかくを税として納めなければいけなかった上に、生活必需品などの購入のためにはお米を売らなければならず、農民はお米を食べることが難しくなっていきました。
そのため、江戸時代後期には天災や飢饉により農民による百姓一揆やうちこわしが拡大していきました。
大戦景気により、お米の値段が一気に上がりました。
1918年に富山県で主婦たちが中心の米騒動が起きました。
これを筆頭に全国で米騒動が頻発していきました。
最終的に全国に広がり、468市町村705万人以上が参加しました。
しかし、政府はこれを105万人以上の兵で鎮圧しました。
【参考】検挙者数255000人以上。うち、死刑2人、無期懲役12人。
第二次世界大戦が始まると、日本は戦地にお米を送っていたので、国内がお米不足の状態となりました。
そこで政府は農家のお米を買い上げ、決められた量だけしか買ってはいけない配給という制度を開始しました。
しかし、人々は配給だけでは生きていけず、違法な売買である闇市を利用し食糧を得ていました。
戦後も日本は農家を保護するためにお米の買い上げを続けました。
しかし時代の流れで日本人がお米を食べる量は徐々に減っていきました。
これにより政府が買い上げたお米はどんどん売れ残っていきました。
さらに政府は高く買い取り、安く売る「逆ザヤ」という状態に陥り、みるみるうちに政府は大赤字になりました。
赤字に危機感を感じた政府は1970年に減反政策(転作奨励金を出すから、転作してくれ)というものを打ち出しました。
これにより農家はどんどん転作していきました。
更にこの頃になると一部のお米は自分で販売してもいい(自主流通)制度もできました。
1993年に日本は戦後最大ともいわれる凶作に陥り、国内のお米が不足しました。
そこで政府は緊急手段としてタイからお米を大量に輸入しました。
しかし、日本人にタイ米はあまり評判がよくなかったそうです。
1990年代前半まで、日本は農家の保護のためにお米の輸入を禁止していました。
しかし、1995年にGATT(関税貿易一般協定 現:WTO)で「日本はお米の輸入をしなければならない」と定められました。そこで政府はミニマムアクセスと言われる最低限の量のお米のみを輸入しました。
今ではミニマムアクセス以外にも輸入できるようになっていますが、ミニマムアクセス以外の輸入に関しては高い関税をかけるという政策を行ったため、ほとんど輸入されていません。