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 古代の結婚

 古代の結婚は今のように決まった形がなく、男女が気が向いたらするものでした。この結婚方法は、誰とでも交流し、夫妻を自由に変えていくものでした。
 他にも「掠奪結婚」という方法がありました。これは、男性が嫁にしたい女性の家族に女性を奪うことを知らせず、日頃から思っている女性を不意に襲い、連れ去る方法です。この結婚は、自分の肩に女性を担いで連れ去るので「担げ(かたげ)」、「かつぎ」と呼ばれていました。また、男女がどちらも納得した上で行われることもありました。
 3世紀頃に成ると、女性が社会的に尊重されるようになりました。その例として、両親のことを「母父(おもちち)」、夫婦のことを「女夫(みょうと)」と呼んでおり、女性の方を先にしていました。伝説でも女性の神様の天照大神が八百万(やおよろず)の神の最上として崇めているなど女性を尊重していることが分かります。

 
 飛鳥・奈良朝時代の結婚

 飛鳥・奈良朝時代になると神功皇后が朝鮮半島広域を征服したことで、朝鮮と日本の交流は頻繁になりました。その後、400年にくだらの王仁という中国人が百済から日本に来たことで「論語」などの漢文や儒教が日本に伝わりました。それから600年ごろ、聖徳太子が小野妹子を随(当時の中国)に派遣し、随の制度を学びそれを元に大学や法律が作られたのです。
 飛鳥・奈良時代に作られた法律の結婚に関する記述は、「男性は15歳、女性は13歳以上であれば結婚していい」というものでした。この法律は中国の法律を真似たもので中国が早婚を奨励していたため、このような現在では早いと思える婚姻年齢になっています。
 結婚する際は、両家とも必ず祖父母や両親、兄弟など身内に相談することを条件とされていました。妻の持参した財産や夫婦で得た財産は、どちらも夫に所有権がありました。嫁家の下女を妻にするものは刑に処され、自由に妻を選べませんでした。人の妻を奪ったり、結婚していながら他人に嫁ぐことも禁止されていました。

 
 平安朝時代の結婚

 平安時代には、唐が衰え日本との交流が減っていくのにしたがって、日本古代の文化が尊重されるようになっていきました。新日本文化が盛んになり、藤原氏は勢いを付けて促進しました。
 ここでは、今でいう大臣に価する公卿(くぎょう)の結婚について紹介します。公卿たちは、女性たちに憧れの存在として見られていたためか、恋愛を遊びだと考えている人も多くいました。そのため、公卿は女性を誘惑したり、妻や妾(めかけ)などにして、女性を不幸にすることも少なくありませんでした。しかしこの事情を知っていて、成人になった時と同時に嫁をもらう家も多く、前代と同じく早婚でした。どの家も良い家柄との縁談を望んでいましたが、あまりにも生まれなどが違うと断られることもありました。
 また、平安朝時代では幼少期のうちに婚約する場合もありました。これは、親が自分の子供の将来を予想、計画することがあったためです。婚姻の儀式も幼少期のうちに行い、これを「びんそぎの式」と言います。この儀式は、婿候補の少年が嫁候補の少女を基盤の上に立たせて、頰の横の髪(=びんそぎ)を短く切るというもので、このびんそぎの際の髪の毛は「婚約をした」という印となり、婿側に責任を持たせるものになりました。また、今のように結納のような儀式はありませんでした。

 
 鎌倉時代の結婚

 藤原氏の勢力が弱っていくにつれて、武家の平氏が勢力を上げてきました。ついに平清盛は政権を手にして一族の繁栄を図り、宮廷の表向きの政治にも武家が参加しました。平時忠が「平家の非ずんば人に非ず」と豪語しており、平家がどれだけ勢力を誇っていたかが分かります。その後、源家が平家を倒したことで、鎌倉時代が始まりました。
 鎌倉時代では、武家が勢力を占めており、それにより婚礼の対象は変わっていきました。少し前までは、公家(貴族、上級官人)と公家の婚姻が多かったですが、武士の地位が上がることで武士と公家の婚姻が目立つようになりました。
例として、将軍九条頼経(別名:藤原頼経)が竹の御所(前将軍の娘)と結婚しました。義経が公家から出ているのに対し、竹の御所は武家から出ています。この結婚は、将軍の力を強くするための武家と公家の政略結婚だったため、義経が13歳、竹の御所は28歳と歳の差を無視した結婚になりました。
 平安朝時代では、嫁の家に婿が入る「婿入」の形でしたか、鎌倉時代では婿の家に嫁が入る「嫁入り」の形になりました。このようなことから、婿の地位が上がったことが分かります。

 
 室町時代の結婚

 室町時代に入ると将軍の権力が小さくなり、身分が下の者が上の者を蹴落とす下剋上の風潮が強まりました。それにより、武士は豪華な生活をするようになり、反乱が多く起こるようになりました。中期には、農作物が取れない凶年が続き、庶民の生活は厳しくなっていきました。足利幕府は、これを改善するために国民に臣下のあり方などを指した「大義名分」を示し、礼道を重視し一つ一つの行動を大切にさせました。また、足利幕府は礼道教育を初めて行いました。その中で、小笠原派(武家故実、弓術、馬術、礼法の流派)が初めて婚礼式の基本を定めて、人々に教えたのです。
 嫁入りの儀礼については、花嫁はまず用意された輿に乗ります。このとき、髪の毛は八、九歳から中央で分け、十六歳になると「鬢枇(びんそぎ)」をしました。花嫁衣装は、最上に白綾(しらあや)地に幸菱(さいわいびし)模様の「被衣(かずき)」という小袖のようなものを頭にかぶり、その下に白地に縫箔(ぬいはく)・幸菱模様の打掛さらにその下に紅梅(こうばい)模様の小袖物を着ます。婚礼の盃事は、室町時代、小笠原流に並んでもう一つ伊勢流(武家礼法の流派)があったのですが、これの礼法が世に進出していったため伊勢流の武家儀礼が行われるようになりました。

 
 
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